黒船の軍楽隊 その00
従来の広く知られた知識では、日本の吹奏楽は大英帝国第10連隊軍楽長であるフェントン(1)によるいわゆる薩摩バンド指導により始まったというものです。公益社団法人日本吹奏楽指導者協会でも明治2年(1869)が日本の吹奏楽の歴史の始まりとしています。
薩摩バンド
日本人と吹奏楽の出会い
産業革命(2)による管楽器の生産力向上と社会構造の変化、そしてヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国の植民地主義(3)や帝国主義(4)も背景とした日本との関わりの中で、日本人は「吹奏楽」と出会いました。
吹奏楽
吹奏楽は管楽器を主体とした編成の音楽ジャンルの一つで、金管楽器・木管楽器に打楽器を加えたり、金管楽器・木管楽器のみの編成、そしてそれらに打楽器を加えたりする編成もあります。必要に応じてコントラバスなどの弦楽器、ピアノやハープなどを加える場合もあります。
国や地域、そして時代によってその使用される楽器や楽器編成は多様で標準化されていないことがほとんどです。現在日本で行われている吹奏楽と筆者が認識している編成は、以下の通りです。
・作曲家が示している楽器や楽器編成によるもの。
・国内外の出版各社が示している楽器や楽器編成によるもの。あるいはそれに準拠したもの。
・出版各社がそれぞれの考えで示している、いわゆるフレキシブル編成(木管・金管・打楽器による編成)
・ブリティッシュ・スタイル・ブラスバンド(サクソルン属を主とする金管・打楽器による概ね28人を標準とする編成)
・ファンファーレ・オルケスト(サキソフォンとサクソルン属を主とする金管・打楽器による編成)
・ビックバンド(サキソフォン・トランペット・トロンボーン・打楽器・ギター・ベース・ピアノによる編成)
・さまざまな管楽器の組み合わせのアンサンブル集団 など
薩摩バンドの初演奏
日本人により編成された最初の吹奏楽団「薩摩バンド」による初公開演奏は、1870年9月7日(明治3年8月12日)に横浜の山手公園(5)野外ステージ(6)で行われました。
「最初は少しもたつきましたが結局素晴らしい演奏でした。薩摩バンドへの拍手は盛大で本物でした。これは日本人が外国の楽器で演奏した最初でしたが、おそらくすぐに他の日本バンドが続くことになるでしょう。」
(ザ・ファー・イースト第1巻8号1870年9月16日発行より)
「薩摩バンドは山手公園の野外ステージで「古代ガリア人の服(The Garb of Auld Gaul ブラックウォッチとしても知られるスコットランド第42歩兵連隊のマーチ)(7)」や「リンカンシャーの密猟者(The Lincoinshire poacher 第10ノースリンカーン歩兵連隊のマーチ)(8)」などを演奏しましたが、拍手喝采を浴び、大いに盛り上がりました。」
(ザ・ファー・イースト第2巻3号1871年7月1日発行より)
なお、この薩摩バンド演奏は、大英帝国第10連隊軍楽隊の演奏会でのゲスト出演でしたが、その演奏会場が外国人専用の「ブラフガーデン」内の野外ステージであったことを考えるとその聴衆は外国人で、その場に日本人聴衆がいたのかは判然としません。
「ザ・ファー・イースト」を読む その2 参照
「ザ・ファー・イースト」を読む その3 参照
塚原康子氏(9)によると、フェントンが薩摩バンドに指導したのは、「英国女王ヲ祝スルノ曲」「早行進ノ譜」「遅行進ノ譜」および国歌「君ケ代」の4曲だということで、「英国女王ヲ祝スルノ曲」は”God Save The Queen”(図1)、「早行進ノ譜」は”The Lincoinshire poacher” (図2)、「遅行進ノ譜」は”The Garb of Auld Gaul” (図3)と思われ、「君ケ代」(図4)は現行とは異なるフェントン作曲のものです。
なお、薩摩バンドの公式演奏として記録に残るのは、1870年10月2日(明治3年9月8日)越中島操練場での天覧練兵(10)の際のフェントン作曲の「君が代」(11)の奏楽です。もちろん他の伝習曲も演奏されたに違いありません。なお、この天覧練兵の様子を三代安藤広重が錦絵「深川越中じま」に描いています。
(図5)が妙香寺の日本吹奏楽発祥の地碑レリーフの元絵です。描かれている楽器は様々な絵巻や図表等の表現を踏襲していて、実際に薩摩バンドが使用していた楽器の形状とは大きく異なると思われます。
薩摩バンド以前の吹奏楽との出会い
オランダの軍楽隊
1844年8月15日(天保15年7月2日)、ペリーの浦賀来航の9年前のことです。オランダ国王ウィレム2世(2)の親書を携えた「コープス使節団」(3)が乗船する軍艦パレンバン号(Palembang)には軍楽隊が随行していました。軍楽隊は当時の国歌「ネーデルランドの血(Wien Neêrlands bloed)」、そして愛国歌(現在のオランダ国歌)「ウィルヘルムス・ファン・ナッソウェ(Wilhelmus van Nassouwe)」を演奏したと言われています。これはフェントンによる薩摩バンド指導の25年前のことです。
ペリーの軍楽隊
ペリーは1853年7月14日(嘉永六年六月九日)に初来航し、条約を締結するための手立ての一つとして上陸時にも軍事訓練実施時にも、そして演奏会を開催するなど意図的に音楽を活用しました。
いわゆる吹奏楽曲の演奏会を開催したのではありませんが、日本人を観衆としてエチオピアン・コンサートを開催するなどしてたくさんの曲が演奏されたことが記録に残っています。
ロシアの軍楽隊
1853年8月(嘉永6年7月)に長崎に来航したプチャーチンの軍楽隊は、「鼓笛4名、ホルン2名、ボンバルドン2名、ラッシアンビューグル4名で構成され、ロシア国歌を演奏した。」との記述もあります。
イギリスの軍楽隊
1854年、ジョン・スターリング少将率いる最初のイギリス海軍艦隊が長崎に到着し「イギリス音楽のメドレー」を演奏する軍楽隊に先導されて6隻の手漕ぎボートで海岸に向かい、最後に「ゴッド・セイブ・ザ・クイーン」で上陸しました。
なお、1859年、箱館にイギリス領事館が開設された際には、イギリス軍楽隊により《アニー・ローリー》他3曲が演奏されました。
また、1863年(文久3)年からイギリス軍は横浜外国人居留地に駐屯して大太鼓、小太鼓、ラッパ、笛という編成の軍楽が上田藩、薩摩藩などに伝わりました。
フランスの軍楽隊
フランス軍艦に乗船の軍楽隊に関する記録を見つけることができていませんが、日本で軍楽隊が演奏をした可能性はあると推察します。
1867年(慶応2年)には西洋式陸軍の訓練のために江戸幕府が招いた第一次フランス軍事顧問団(1867-1868年)の一員ルイ・グティッグ (Louis Gutthig)により信号喇叭の伝習がなされました。また、第 2 次顧問団(1872-1880)ではギュスターヴ・シャルル・ダグロン(Gustave Charles Desire Dagron 1845-1898 頃)が来日し、陸軍の吹奏楽全般を指導しました。1884 年にはシャルル・エドアール・ガブリエル・ルルー(1851-1926)を迎え、陸軍は一貫してフランス式軍楽を取り入れました。
ドイツ(プロイセン)の軍楽隊
1852年帆船ゲフィオンに15名編成の軍楽隊が乗船したのがプロイセン海軍軍楽隊の始まりです。横浜港に1860年に来航し江戸幕府との間に日普修好通商条約を締結時の艦隊は、 蒸気式コルベット艦アルコナ(乗組員319人)、 帆走フリゲート艦テティス(乗組員333人)、スクーナー、フラウエンロープ(乗組員41人)、貨物船エルベ(乗組員47人)の4隻でしたので、乗員規模から軍楽隊が同乗していたと推察できます。
なお、日本海軍軍楽隊は1879(明治12)からドイツ・プロイセン出身のフランツ・フォン・エッケルト(Franz Eckert 1852-1916)が指導を担い、ドイツ式となりました。
黒船の軍楽隊が日本の吹奏楽の始まり
フェントンによる薩摩藩軍楽伝習生への吹奏楽指導は、フェントンが当時のイギリス最先端の木管楽器・金管楽器・打楽器の編成とそのための楽器を一括導入して実施されました。この薩摩バンドの編成と楽器は現代吹奏楽の基本形となり、およそ30名の管楽器奏者も育成しました。このことが日本の吹奏楽の始まりと言われる所以です。
なお、薩摩バンドは訓練期間を含め1年程で活動を中止し、その伝習生が1871年(明治4年)創設の海軍・陸軍軍楽隊の中心メンバーとなりました。ちなみに、薩摩バンドの初演奏は1870年9月7日(明治3年8月12日)山手公園での演奏、最終演奏が1870年10月2日(明治3年9月8日)越中島操練場での天覧練兵での演奏ではないかと推察します。薩摩バンド実演奏公開期間は2ヶ月足らずだと言うことです。
では、日本と吹奏楽の出会いはと考えると、各国の軍楽隊が薩摩バンド以前から様々な場面や場所で、意図せずに公開となった場面を含め、演奏を断続的にあるいは定期的に行っていたことを「出会い」と考えるのが適切ではないかと考えます。
特にペリーの軍楽隊はその活動の記録が多数残っていることもあって、その音楽活動に大きな役割を担わせたことがわかっています。他国の軍楽隊も記録は十分ではありませんが、その軍楽隊の音楽が多くの日本人の耳と心に届いていたに違いがありません。
したがって、ここではずいぶん極端ではありますが「黒船の軍楽隊が日本の吹奏楽の始まり」とまとめます。
SATSUMA’S BAND 薩摩藩軍楽伝習生 参照
黒船の軍楽隊 その1〜19 参照
脚注
(1)ジョン・ウィリアム・フェントン(John William Fenton 1831-1890)はアイルランド生まれのイギリス軍人
(2)産業革命(industrial revolution)は、18世紀半ばから19世紀にかけて起こった一連の産業の変革と石炭利用によるエネルギー革命、それにともなう社会構造の変革のこと
(3)国外の国・地域の人々と資源の管理と搾取を追求し、確立し維持すること
(4)軍事力と経済力そして外交力と文化力を用いて、外国に対する権力を維持または拡大する実践、理論、または態度のこと
(5) 当時は外国人専用の公園で、「ブラフガーデン」と呼ばれていた(ブラフは崖の意味で、急傾斜地の多い山手地区を指す)
(6) バンド・スタンドと呼ばれる小屋根がついた野外ステージ
(7)「古代ガリア人の服(The Garb of Auld Gaul)」の演奏
(8)「リンカンシャーの密猟者(The Lincoinshire poacher)」の演奏
(9) 塚原康子氏は東京藝術大学楽理科教授 『「海軍軍楽隊沿革資料」(明治20) 他の史料による検討』による
(10) 天皇が行幸して行われる軍事訓練のこと
(11)フェントン作曲の「君が代」
(図1)同じ曲がイギリスの君主が女王の際は"God Save The Queen"(女王陛下万歳)、王の場合は"God Save The King"となります。
(図2)"The Lincoinshire poacher" のThe Brighouse and Rastrick Brass Bandによる演奏
(図3)"The Garb of Auld Gaul"のHousehold Division Massed Bandsによる演奏
(図4)フェントン作曲「君が代」
(図5)帝政ロシア国歌
(図6)Annie Laurie
他の黒船の軍楽隊シリーズ
黒船の軍楽隊 その1 黒船とペリー来航
黒船の軍楽隊 その2 琉球王国訪問が先
黒船の軍楽隊 その3 半年前倒しで来航
黒船の軍楽隊 その4 歓迎夕食会の開催
黒船の軍楽隊 その5 オラトリオ「サウル」HWV 53 箱館での演奏会
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黒船の軍楽隊 その7 下田そして那覇での音楽会開催
黒船の軍楽隊 その8 黒船絵巻 - 1
黒船の軍楽隊 その9 黒船絵巻 - 2
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黒船の軍楽隊 その11 ペリー以外の記録 – 1 (阿蘭陀)
黒船の軍楽隊 その12 ペリー以外の記録 – 2 (阿蘭陀の2)
黒船の軍楽隊 その13 ペリー以外の記録 – 3 (魯西亜)
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黒船の軍楽隊 番外編 2 ヘ ン デ ル の 葬 送 行 進 曲
黒船の軍楽隊 その17 ペリー以外の記録 -7 (英吉利)
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黒船の軍楽隊 番外編 3 ドラムスティック
黒船の軍楽隊 その19 黒船絵巻 - 4 夷人調練等之図
ファーイーストの記事
「ザ・ファー・イーストはジョン・レディー・ブラックが明治3年(1870)5月に横浜で創刊した英字新聞です。
この新聞にはイギリス軍人フェントンが薩摩藩軍楽伝習生に吹奏楽を訓練することに関する記事が少なくても3回(4記事)掲載されました。日本吹奏楽事始めとされる内容で、必ずや満足いただける読み物になっていると確信いたしております。
是非、お読みください。
・「ザ・ファー・イースト」を読む その1 鐘楼そして薩摩バンド
・「ザ・ファー・イースト」を読む その1-2 鐘楼 (しょうろう)
・「ザ・ファー・イースト」を読む その2 薩摩バンドの初演奏
・「ザ・ファー・イースト」を読む その3 山手公園の野外ステージ
・「ザ・ファー・イースト」を読む その4 ファイフとその価格
・「ザ・ファー・イースト」を読む その5 和暦と西暦、演奏曲
・「ザ・ファー・イースト」を読む その6 バンドスタンド
・「ザ・ファー・イースト」を読む その7 バンドスタンド2 、横浜地図
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writer HIRAIDE HISASHI
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