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黒船の軍楽隊 その2

 琉球りゅうきゅう王国は奄美群島と沖縄諸島及び先島諸島までを勢力下におく独立国家です。1429年にしょう巴志はし三山さんざんを統一して「琉球王国」が成立したと言われます。しょう氏は王として首里城・那覇港の 整備を進め中国(明)をはじめ日本・朝鮮・南方諸国・海外諸国との交易を盛んに行い、琉球繁栄の基礎をもたらしたといわれます。

 *三山さんざんとは沖縄本島の南部、中部、北部のことで、1322年頃から1429年までの期間を三山時代と呼びます。


琉球王国訪問が先

 琉球王国は1609年以降に薩摩藩により外交及び貿易権に制限がかけられていましたが、1879年の琉球処分(1)により日本の沖縄県とされるまで450年続きました。

 1853年5月26日、浦賀への黒船来航に先立つことおよそ1ヶ月前にペリー提督は、フィルモア大統領の文書を手に琉球王国(2)の開国を求めて那覇にやってきました。

石版画からわかるペリー訪問

ペリー提督、士官および戦隊隊員の帰還  (図1)

 ペリーは琉球を香港(3)と日本の中継基地としていて、日本来訪時にも艦隊の一部を那覇に駐屯させていました。

 そのペリー艦隊の最初の琉球訪問が1853年5月で、6月6日には開国を求める文書を首里城に届けました。その様子が描かれたヴィルヘルム・ハイネ作の石版画の中心部分を見ると20人編成ほどの軍楽隊が小さく描かれていることがわかります。ドラム奏者がおそらく2名いて、ここでもオーバー・ザ・ショルダー・サクソルンと思われる金管楽器奏者も描かれています。枠外には「1853年6月6日、首都首里における摂政王子への公式訪問より」との説明があります。

軍楽隊演奏場面の拡大 (図2)

 なお、ベイヤード・テイラーの「インド・中国・日本への訪問記」(4)によると首里城訪問の随行員総員は約215名で、そのうち32名が士官、122名が船員と海兵隊員、そして30名のミシシッピ号の軍楽隊員でした。上陸地点(トゥマイTumai)から首里城までおよそ1時間の距離を進む間、軍楽隊が交互に演奏を続けました。そして、首里城入場時には、「コロンビア万歳」が演奏されました。残念なことに首里城に向かう行進中に演奏された曲名についての言及がありませんが「元気な音楽」とありますので、ヤンキー・ドゥドゥルなども演奏されたと推測できます。

ペリー提督の首里城訪問 (図3)

ペリー艦隊の動き

1852年11月24日 アメリカ東海岸ノーフォークを出航
   12月12日 マディラ諸島に到着
1853年 1月10日 セントヘレナ島に到着
    1月24日 喜望峰のケープタウンに到着
    2月18日 モーリシャス島に到着
    3月10日 ポイント・デ・ガルに到着
    3月25日 シンガポールに到着
    4月 7 日 香港に到着
    5月17日 上海に到着
    5月23日 上海(5)を出航


 1853年
5月26日(咸豊3年4月19日)サスケハナ号など5隻の艦隊が琉球王国那覇沖に投錨
  28日(咸豊3年4月21日)総理官 摩文仁まぶに按司あんじ尚大模しょうたいもと面会
  30日(咸豊3年4月23日)沖縄島を6日間かけての調査開始(173km踏破といわれる)
6月6日(咸豊3年4月30日)ペリーが首里城に入城しフィルモア大統領からの文書を手渡した。
  8日(咸豊3年5月2日)琉球国王などへ品物贈呈
  9日(咸豊3年5月3日)ミシシッピー号を停泊させたままで小笠原諸島を探検
  18日(咸豊3年5月12日)小笠原諸島の探検を終え、那覇帰港
7月2日(咸豊3年5月26日)サプライ号を停泊させたままで琉球出港し浦賀に向う
  25日(咸豊3年6月20日)浦賀から帰港
8月1日(咸豊3年6月27日)香港に向け出港


【脚注】

(1) 琉球王国(1429-1879)は、中国をはじめ日本・朝鮮・東南アジア諸国との外交・貿易を通して海洋国家として発展していた王国で、首里城が政治・経済・文化の中心であった
(2) 明治政府が琉球王国を併合・解体し沖縄県とした政治過程のこと
(3) 英国領香港(1841-1997) アヘン戦争南京条約によりイギリスに割譲された香港島のこと
(4) A VISIT TO INDIA CHINA AND JAPAN IN THE YEAR 1853 by BAYARD TAYLOR NEW YORK : G.P.PUTNAM & CO., l0 PARK PLACE. LONDON: SMPSON LOW,SON & CO.1855.
(5) 1842年の南京条約により開港され、イギリス・フランスアメリカ合衆国の外国人居 留地(租界)が形成された


(図1)那覇港を見下ろす丘陵地にある首里城に向うペリーの隊列を描いた石版画 : ニューヨークのE.ブラウン 社出版のヴィルヘルム・ハイネによる手彩色石版画
(図2)図5の中心部分に描かれた軍楽隊の様子
(図3)ヴィルヘルム・ハイネの石版画 200人ほどの水兵、軍楽隊が首里城を訪れた


他の黒船の軍楽隊シリーズ

黒船の軍楽隊 その0ゼロ 黒船の軍楽隊から薩摩バンドへ 

黒船の軍楽隊 その1 黒船とペリー来航
黒船の軍楽隊 その2 琉球王国訪問が先
黒船の軍楽隊 その3 半年前倒しで来航
黒船の軍楽隊 その4 歓迎夕食会の開催
黒船の軍楽隊 その5 オラトリオ「サウル」HWV 53 箱館での演奏会
黒船の軍楽隊 その6 下田上陸
黒船の軍楽隊 その7 下田そして那覇での音楽会開催
黒船の軍楽隊 その8  黒船絵巻 - 1
黒船の軍楽隊 その9  黒船絵巻 - 2
黒船の軍楽隊 その10 黒船絵巻 - 3
黒船の軍楽隊 その11 ペリー以外の記録 – 1 (阿蘭陀) 
黒船の軍楽隊 その12 ペリー以外の記録 – 2 (阿蘭陀の2) 
黒船の軍楽隊 その13 ペリー以外の記録 – 3 (魯西亜) 
黒船の軍楽隊 その14 ペリー以外の記録 – 4 (魯西亜の2) 
黒船の軍楽隊 その15 ペリー以外の記録 – 5 (魯西亜の3) 
黒船の軍楽隊 その16  ペリー以外の記録 – 6 (魯西亜の4)
黒船の軍楽隊      番外編 1 ロシアンホルンオーケストラ
黒船の軍楽隊      番外編 2 ヘ ン デ ル の 葬 送 行 進 曲
黒船の軍楽隊 その17  ペリー以外の記録  -7 (英吉利)
黒船の軍楽隊 その18  ペリー以外の記録  -8 (仏蘭西)
黒船の軍楽隊     番外編 3 ドラムスティック
黒船の軍楽隊 その19 黒船絵巻 - 4 夷人調練等之図


ファーイーストの記事

「ザ・ファー・イーストはジョン・レディー・ブラックが明治3年(1870)5月に横浜で創刊した英字新聞です。
 この新聞にはイギリス軍人フェントンが薩摩藩軍楽伝習生に吹奏楽を訓練することに関する記事が少なくても3回(4記事)掲載されました。日本吹奏楽事始めとされる内容で、必ずや満足いただける読み物になっていると確信いたしております。

 是非、お読みください。

「ザ・ファー・イースト」を読む その1   鐘楼そして薩摩バンド
「ザ・ファー・イースト」を読む その1-2  鐘楼 (しょうろう)
「ザ・ファー・イースト」を読む その2   薩摩バンドの初演奏
「ザ・ファー・イースト」を読む その3   山手公園の野外ステージ
「ザ・ファー・イースト」を読む その4   ファイフとその価格
「ザ・ファー・イースト」を読む その5   和暦と西暦、演奏曲
「ザ・ファー・イースト」を読む その6   バンドスタンド
「ザ・ファー・イースト」を読む その7   バンドスタンド2 、横浜地図

SATSUMA’S BAND 薩摩藩軍楽伝習生



writer HIRAIDE HISASHI

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