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黒船の軍楽隊 その17

 1854年10月14日 (嘉永7年8月23日)に日英和親条約が締結しました。
 1854年 3月31日 (嘉永7年3月3日) の日米和親条約と1855年 2月 7日 (安政元年12月21日) の日露和親条約の締結の間の期間に日英和親条約は結ばれました。
 1853年から1854年のペリーの軍楽隊や1554年から1556年にかけてのプチャーチンの軍楽隊の記録はいくつかあります。
 ということは、イギリスの船にも軍楽隊が乗船していたのに違いがありません。


ペリー以外の記録 – 7 (英吉利)

 今村朗(1) の論文、『ジョン・ウィリアム・フェントン(1831–1890)と日本の国歌「君が代」』(John William Fenton (1831–1890) and the Japanese National Anthem Kimigayo)の序論に、

 「翌年(1854)、ジョン・スターリング少将率いる最初のイギリス海軍艦隊が長崎に到着しました。彼らは「イギリス音楽のメドレー」を演奏する軍楽隊に先導されて6隻の手漕ぎボートで海岸に向かい、最後に「ゴッド・セイブ・ザ・クイーン」で上陸しました。ほぼ間違いなく、日本で英国音楽が演奏されたのはこれが初めてです。In the following year the first British naval flotilla under Rear Admiral Sir John Stirling arrived in Nagasaki; they made for the shore in six rowing boats, led by a band that played a medley of English airs, concluding when they finally landed with God Save The Queen. This was almost certainly the first time British music was played in Japan. 

 とあり、スターリングの軍楽隊は少なくても「イギリス音楽のメドレー」と「ゴッド・セイブ・ザ・クイーン」を演奏したのがわかります。

「ゴッド・セイブ・ザ・クイーン」参考譜 1870年版 (図1)

日英和親条約

 1854年10月14日(嘉永7年8月23日)に締結された日英和親条約は、一連の行き違いによって長崎で調印されました。スターリングの艦隊が1854 年 9 月 7 日 (嘉永7年7 月 15 日)に長崎に来航した目的は、a)戦争状態にあったロシア艦隊を発見し攻撃すること。 b)日本がイギリスとロシアの間で中立の立場をとることを確認することでした。

 スターリングの長崎来航は、1853年からのアメリカやロシアの条約締結を求める訪日がなされる時期であったため、長崎奉行水野忠則(4)の「スターリングは条約締結のために来航した」との思い込みや、通訳 西吉兵衛(5)の誤訳もあり目付永井尚志(6)とともに条約の調印に至りました。

第1条 長崎と函館の港を英国船舶に開港し、補給と修理を行う
第2条 長崎と函館の開港日を設定、英国は現地の規制に従う
第3条 その他の港は遭難時のみ英国船舶が使用できる
第4条 日本現地法を遵守するための同意する
第5条 将来の開港に関する最恵国協定(7)
第6条 条約は12か月以内に批准する
第7条 条約は将来の英国の訪問によって変更されることはない

 なお、この条約は徳川家定が将軍の時代でしたが、第6条に「イギリス女王陛下」と「日本の天皇陛下」により批准と規定されていて、後に孝明天皇によって承認されました。

スターリングの軍楽隊

 スターリングは長期間にわたり日本に滞在しましたが、その軍楽隊に関わる図版を含む記録を筆者は今村朗(1) の論文以外に見つけることがてできていません。

 1854 年 9 月 7 日(嘉永7年7 月 15 日)、旗艦ウィンチェスター号(8)と他の 3 隻の艦隊 ( エンカウンター号、スティックス号、バラクータ号)で長崎港に入港しました。10月4日(8月13日)、10月9日(8月18日)、10月14日(8月23日)の3回の交渉で条約調印に至ったので、少なくても3回は軍楽隊が上陸しているのではないかと推測できます。
 また、1855年3月24日(安政2年2月7日)には、第6条に規定した批准文書の交換を求め長崎に再訪し、1855年5月24日(安政2年4月9日)から6月26日(5月13日)のおよそ1ヶ月間に渡り箱館に滞在した後、1855年10月9日(安政2年8月29日)に長崎で批准書の交換となりましたので、箱館でもイギリス軍楽隊の演奏が行われたと思われます。しかし、その記録もウィンチェスター号の艦影等以外の図版も見つけることができていません。

H.M.S. Winchester (図2)

脚注

(1)今村 朗(いまむら あきら1960 - )は、日本の外交官 2013年当時は在英国日本国大使館公使兼ロンドン総領事
(2) ジェームズ・スターリング(Admiral Sir James Stirling 1791-1865)は、イギリスの海軍将校、政治家、外交官。来日時には、中国および東インド諸島基地の最高司令官(1854年1月-1856年2月)を務めた。
(3) 女王陛下万歳(God Save The Queen)は、イギリスの国歌で国王(King:男性)の場合は、国王陛下万歳(God Save the King)と歌われる
(4) 水野忠則(みずの ただのり 1810-1868)は、江戸時代末期の旗本、幕臣、長崎奉行
(5) 西吉兵衛(にし きちびょうえ/きちべえ)は江戸時代の長崎阿蘭陀通詞西家当主が名乗った通称。ここでは第11代の西成量(にし なりかず1811-1854)のこと。条約の第2回交渉当日の朝(1854年10月9日:嘉永7年8月17日)に中風(脳血管障害:脳卒中)により死去した
(6) 永井尚志(ながい なおゆき/ながい なおむね1816-1891)は、幕末の武士(旗本)。三島由紀夫の父方の高祖父
(7) 最恵国待遇とは、どの国にかに与える有利な待遇を、他のすべての国に対して与えなければならないということ
(8)ウィンチェスター号(HMS Winchestar)乗員450名の帆船フリゲート艦
(9)エンカウンター号(HMS Encounter)乗員225名の蒸気スクリューコルベット艦
(10)スティックス号(HMS Sty)乗員160名の外輪スループ艦
(11)バラクータ号(HMS Barracouta)乗員100名の外輪スループ艦


(図1)1870年 John F. Stratton, New York, 出版 Military Band Musicシリーズ 編成 2E♭Cor, 2B♭Cor, 3E♭Alt, 2B♭Ten, 1B♭Bari, 1Basses
(図2)ウィンチェスター号(HMS Winchester)は、イギリス海軍のサザンプトン級の60門フリゲート艦で、クリミア戦争中の1854年にロシア艦隊を捜索して長崎に来航した


他の黒船の軍楽隊シリーズ

黒船の軍楽隊 その0ゼロ 黒船の軍楽隊から薩摩バンドへ 

黒船の軍楽隊 その1 黒船とペリー来航
黒船の軍楽隊 その2 琉球王国訪問が先
黒船の軍楽隊 その3 半年前倒しで来航
黒船の軍楽隊 その4 歓迎夕食会の開催
黒船の軍楽隊 その5 オラトリオ「サウル」HWV 53 箱館での演奏会
黒船の軍楽隊 その6 下田上陸
黒船の軍楽隊 その7 下田そして那覇での音楽会開催
黒船の軍楽隊 その8  黒船絵巻 - 1
黒船の軍楽隊 その9  黒船絵巻 - 2
黒船の軍楽隊 その10 黒船絵巻 - 3
黒船の軍楽隊 その11 ペリー以外の記録 – 1 (阿蘭陀) 
黒船の軍楽隊 その12 ペリー以外の記録 – 2 (阿蘭陀の2) 
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黒船の軍楽隊 その14 ペリー以外の記録 – 4 (魯西亜の2) 
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黒船の軍楽隊      番外編 1 ロシアンホルンオーケストラ
黒船の軍楽隊      番外編 2 ヘ ン デ ル の 葬 送 行 進 曲
黒船の軍楽隊 その17  ペリー以外の記録  -7 (英吉利)
黒船の軍楽隊 その18  ペリー以外の記録  -8 (仏蘭西)
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黒船の軍楽隊 その19 黒船絵巻 - 4 夷人調練等之図


ファーイーストの記事

「ザ・ファー・イーストはジョン・レディー・ブラックが明治3年(1870)5月に横浜で創刊した英字新聞です。
 この新聞にはイギリス軍人フェントンが薩摩藩軍楽伝習生に吹奏楽を訓練することに関する記事が少なくても3回(4記事)掲載されました。日本吹奏楽事始めとされる内容で、必ずや満足いただける読み物になっていると確信いたしております。

 是非、お読みください。

「ザ・ファー・イースト」を読む その1   鐘楼そして薩摩バンド
「ザ・ファー・イースト」を読む その1-2  鐘楼 (しょうろう)
「ザ・ファー・イースト」を読む その2   薩摩バンドの初演奏
「ザ・ファー・イースト」を読む その3   山手公園の野外ステージ
「ザ・ファー・イースト」を読む その4   ファイフとその価格
「ザ・ファー・イースト」を読む その5   和暦と西暦、演奏曲
「ザ・ファー・イースト」を読む その6   バンドスタンド
「ザ・ファー・イースト」を読む その7   バンドスタンド2 、横浜地図

SATSUMA’S BAND 薩摩藩軍楽伝習生

writer HIRAIDE HISASHI


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