永山音楽室報道部

英国式ブラスバンドと吹奏楽、その周辺についてまとめよう!

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マガジン

  • 吹奏楽あれこれ

    吹奏楽に関連したあれこれを書きます。

  • ちょっと昔々の吹奏楽の おはなし

    昭和30-40年代前後の吹奏楽に関する今につながる基本的なお話のあれこれ

  • 昔の昔の大昔の吹奏楽

    江戸末期・明治から昭和20年頃までの吹奏楽について

  • ファーイーストを読む (薩摩バンドと・・・)

    吹奏楽の編成を調べていて、日本の吹奏楽事始の事始を見ていたファーイーストという英字新聞に気づきました。明治初年に横浜で出版されていたファーイーストとそこに書かれた記事から発想した内容を集めます。

  • 楽器編成の推移・歴史など

    楽器の組み合わせの話を吹奏楽・金管バンド関係者の参考になれば

最近の記事

  • 固定された記事

SATSUMA’S BAND 薩摩藩軍楽伝習生

 神奈川県横浜市中区妙香寺台8番地の妙香寺(みょうこうじ)*1は、「君が代」発祥の地および日本吹奏楽発祥の地としても知られる日蓮宗の寺院です。 1869年(明治2年)薩摩藩の30人余りの藩士*2は、10月頃から妙香寺でイギリス陸軍第十連隊第一大隊軍楽隊長のジョン・ウィリアム・フェントン*3から洋楽指導を受けました。  当初はイギリスに発注した楽器が届いていませんでしたので、調練と信号喇叭の訓練、そして五線譜の読譜訓練と日本製の笛・太鼓・喇叭を使った訓練が実施されました。187

    • Satsuma's Band 薩摩軍楽伝習生 その5

       薩摩バンドの楽器一式の値段に関する記事の中に「1500ドル」と「洋銀六千ドル」と「洋銀六千元」という2つの数字「1500」と「六千」、2つの単位「ドル」と「元」を記述しました。この数字「1500」は楽器購入費、「六千」は楽器と銃1500梃・薬莢製造機械全ての輸入費です。 ドルとは・・・ 1500ドルは楽器購入費としてどうやら事実に近い金額であろうことは、「Satsuma's Band 薩摩軍楽伝習生 その3」で明らかにしました。ところがそこには単位に関する誤解が含まれてい

      • Satsuma's Band 薩摩軍楽伝習生 その4

         残念ながら詳細な記録ではないのですが、薩摩軍楽伝習生が使った楽器購入に関わると思われる契約の経緯に関するちょっとした歴史資料から読み取れるお話です。 鹿児島県史料  忠義公史料 鹿児島県は1968年(昭和43)から「幕末維新」等に関する史料を令和5年度までに108冊刊行し、その多くを公開しています。その中の忠義公史料 第6巻には薩摩バンド楽器購入に関わると思われる記述があります。  島津忠義  島津忠義*1)は薩摩藩12代藩主で、廃藩後も明治23年(1890)2月の帝

        • Satsuma's Band 薩摩軍楽伝習生 その3

           薩摩軍楽伝習生が使ったロンドンのディスティン社に発注された最高品質の楽器一揃いの値段は1500ドルでした。 1500弗 昭和16年に発行された小山作之助*1)遺稿「国歌君が代の由来」P.104に「(楽器買入代一組千五百弗也と思う)」と記されているのが、楽器購入価格が示されている最も古い記述かもしれません。(図1)  「楽器購入費が1500ドル」というのは、海軍軍楽隊史や中村祐庸遺録等にも見当たりませんが、1942年(昭和17)発行の堀内敬三*2)著「音楽五十年史」以降も

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        SATSUMA’S BAND 薩摩藩軍楽伝習生

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        • 黒船の軍楽隊
          26本

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          SATSUMA’S BAND 薩摩藩軍楽伝習生 その2

           ジョン・ウィリアム・フェントンは指導依頼を受けた薩摩軍楽伝習生のために軍楽隊で使われる全種類の最高品質の楽器一揃いをロンドンのディスティン社に注文していました。1869年10月頃から楽器が届くまでの期間には読譜や日本製の笛・太鼓・喇叭を使った訓練が実施されました。その楽器が1870年7月31日(明治3年7月4日)にロンドンから届き*1)、訓練は1870年10月2日(明治3年9月8日)越中島操練場での天覧練兵での演奏まで続きました。*2) 「海軍軍楽隊:日本洋楽史の原典」 

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          SATSUMA’S BAND 薩摩藩軍楽伝習生 その2

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          黒船の軍楽隊 その00

           従来の広く知られた知識では、日本の吹奏楽は大英帝国第10連隊軍楽長であるフェントン(1)によるいわゆる薩摩バンド指導により始まったというものです。公益社団法人日本吹奏楽指導者協会でも明治2年(1869)が日本の吹奏楽の歴史の始まりとしています。 薩摩バンド 日本人と吹奏楽の出会い  産業革命(2)による管楽器の生産力向上と社会構造の変化、そしてヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国の植民地主義(3)や帝国主義(4)も背景とした日本との関わりの中で、日本人は「吹奏楽」と出会いまし

          黒船の軍楽隊 その00

          黒船の軍楽隊 その19

           1853年7月8日(嘉永六年六月三日)にペリー艦隊は浦賀沖に来航投錨し、7月14日(嘉永六年六月九日)に久里浜に上陸しました。ペリーはアメリカ合衆国第13代大統領フィルモアの開国を促す親書を浦賀奉行に受け渡し、その回答を1年後に求めることを通告しました。 黒船絵巻 - 4 ペリーの久里浜での軍事訓練の様子が函館図書館所蔵の「夷人調練等之図」に描かれています。 亜米利加人調練之図及亜米利加兵並艦之図  函館図書館の解説によると、西村正信(1)の筆で「谷文一が上陸図と兵士

          黒船の軍楽隊 その19

          黒船の軍楽隊 番外編 ドラムスティック

           函館図書館が所蔵する「異国人之絵」には1804年9月29日(文化元年9月7日)に長崎を訪れたロシア使節ニコライ・レザノフを含む6人・鑓・5つの旗が描かれています。描かれた人物の1人は鼓手です。 異国人之絵 魯西亜帝国(Россійская Имперія1721-1917年)は、1792年にアダム・ラクスマン(Адам Кириллович Лаксман1766-1806以降に死去)を使節として派遣しましたが松前藩との交渉で、長崎への入港許可証(信牌)を交付されましたが

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          黒船の軍楽隊 番外編 ドラムスティック

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          黒船の軍楽隊 その18

           1854年(嘉永7年)1855年(安政元年)の米英露3カ国との和親条約締結は、外国船来航の活発化につながり、諸外国との通商条約締結につながりました。 ペリー以外の記録 – 8 (仏蘭西) 日米和親条約で開港された函館港を1855年と1856年に利用した外国軍艦の記録が箱館市史に(整理漏れがあるという前提で)記されています。 1855年と1856年に函館港を訪れた外国軍艦  1854年3月に条約締結のアメリカ軍艦が4艦、同じ1854年10月のイギリス軍艦が13艦、185

          黒船の軍楽隊 その18

          黒船の軍楽隊 その17

           1854年10月14日 (嘉永7年8月23日)に日英和親条約が締結しました。  1854年 3月31日 (嘉永7年3月3日) の日米和親条約と1855年 2月 7日 (安政元年12月21日) の日露和親条約の締結の間の期間に日英和親条約は結ばれました。  1853年から1854年のペリーの軍楽隊や1554年から1556年にかけてのプチャーチンの軍楽隊の記録はいくつかあります。  ということは、イギリスの船にも軍楽隊が乗船していたのに違いがありません。 ペリー以外の記録 –

          黒船の軍楽隊 その17

          黒船の軍楽隊 番外編 ヘンデルの行進曲

           1854年のペリーの日本来航時には、ヘンデル作曲のオラトリオ「サウル」の「葬送行進曲」が演奏され、3人の海兵隊員が横浜(1名、後に下田に改葬)と函館(2名)に埋葬されました。 "熊おやじ 提督マシュー C. ペリー サミュエル・モリソン著の「“熊おやじ”提督マシュー C.ペリー」P.370に「海兵隊の衛兵が片手を背の後ろに銃を逆さにして握り(リバースアーム)、横笛と覆いをかけた小太鼓(1)でサウルの葬送行進曲を演奏した。」(There was a guard of mar

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          黒船の軍楽隊 番外編 ヘンデルの行進曲

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          黒船の軍楽隊 番外編 - ロシアンホルンオーケストラ

           『発明家はホルン・オーケストラで使われるまっすぐなホルンを「牡羊の角」のようにリング状や渦巻き状に曲げて、行軍中や馬上での持ち運びを容易にしようと考えた』 ロシア唯一の音楽ジャンル 知らないことは今もこれからもたくさんあるのだと「黒船の軍楽隊-16」の記事を書いていて気付かされました。  「Рогово́й орке́стр(ホルン・オーケストラ)」はロシア唯一の音楽アンサンブルで、1751年にG.ナルイシュキン(1)の命によりヤン・マルシュ(2)が2オクターブの音域を

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          黒船の軍楽隊 番外編 - ロシアンホルンオーケストラ

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          黒船の軍楽隊 その16

           18世紀後半の産業革命による工業の飛躍的な発展は、金管楽器の大量生産にもつながりました。木管楽器のような有鍵や有穴の金管楽器も、19世紀初頭の金管楽器用ヴァルブの開発によりアンサンブル旋律楽器として活用場面が広がりました。 ペリー以外の記録 – 6 (魯西亜 の4) 来航したロシアの軍楽隊は金管楽器と打楽器を主として編成されていました。そこで使用されている金管楽器は、チェルベニー製の可能性が高いのではないかと推測します。それは、А. レヴァーシキン(А.Левашкин)

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          黒船の軍楽隊 その16

          黒船の軍楽隊 その15

           江戸時代に江戸幕府や諸大名に仕えた御用絵師は、それぞれの藩主らの命により様々な絵を描きました。福岡藩は1641年から長崎の警備を命じられ佐賀藩と共に長崎御番を務めていました。福岡藩の尾形探香は、露西亜の長崎来航の際に御用絵師として「ロシア使節団図」を描きました。 ペリー以外の記録 – 5 (魯西亜 の3) 尾形探香が1853年(嘉永6年)に長崎に来航したロシア使節団を描いたスケッチが「ロシア使節団図」として福岡県立美術館に所蔵されています。 ロシア使節団図  福岡藩御

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          黒船の軍楽隊 その15

          黒船の軍楽隊 その14

           エフィム・プチャーチン(Евфимий(Ефим) Васильевич Путятин1803 -1883)は、1853年に長崎に来航し1855年2月7日(安政元年12月21日)には下田で日露和親条約を締結しました。なお、日本との交渉中の1854年12月23日(嘉永7年11月4日)の安政東海地震(1)による津波による被害やその後の嵐により船を失ったプチャーチンは、代船「ヘダ号」(2)を日本で建造して帰国しました。  ペリー以外の記録 – 4 (魯西亜 の2)嘉永六年丑七

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          黒船の軍楽隊 その14

          黒船の軍楽隊 その13

           魯西亜帝国(Россійская Имперія1721-1917年)は、1792年にアダム・ラクスマン(Адам Кириллович Лаксман1766-1806以降に死去)を使節として派遣しましたが松前藩との交渉で、長崎への入港許可証(信牌)を交付されましたが長崎へは向かわずに帰国しました。その「信牌(1)」を手にニコライ・レザノフ(Никола́й Петро́вич Реза́нов1764-1807)は、1804年(文化元年)9月に長崎の出島に来航しました。

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          黒船の軍楽隊 その13