永山音楽室報道部

英国式ブラスバンドと吹奏楽、その周辺についてまとめよう!

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マガジン

  • 吹奏楽あれこれ

    吹奏楽に関連したあれこれを書きます。

  • 黒船の軍楽隊

    1853年(嘉永6)そして翌年にマシュー・ペリー提督が率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊が開国を求めて日本にやってきました。この艦隊には軍楽隊が乗船していて上陸時に演奏をしたことや演奏会を開催したことが知られています。

  • 昔の昔の大昔の吹奏楽

    江戸末期・明治から昭和20年頃までの吹奏楽について

  • ちょっと昔々の吹奏楽の おはなし

    昭和30-40年代前後の吹奏楽に関する今につながる基本的なお話のあれこれ

  • ファンファーレ・オルケスト

    北海道ファンファーレオルケストプロジェクトの取り組みについて

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黒船の軍楽隊 その1

 15世紀から19世紀(江戸時代以前)に来日したヨーロッパやアメリカの大型船は、船体が黒い防水塗料(1)で塗られていたため「黒船」と呼ばれていました。特に1853年(嘉永6)にマシュー・ペリー提督(2)が率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊が開国を求めた「黒船来航」で広く知られます。 黒船とペリー来航 ペリー提督は1853年には蒸気外輪船2隻・帆船2隻の4隻、1854年には蒸気外輪船3隻・帆船6隻の9隻で日本に来航しました。なお蒸気外輪船での蒸気機関による運行で帆船の曳航な

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    • 黒船の軍楽隊 その00

       従来の広く知られた知識では、日本の吹奏楽は大英帝国第10連隊軍楽長であるフェントン(1)によるいわゆる薩摩バンド指導により始まったというものです。公益社団法人日本吹奏楽指導者協会でも明治2年(1869)が日本の吹奏楽の歴史の始まりとしています。 薩摩バンド 日本人と吹奏楽の出会い  産業革命(2)による管楽器の生産力向上と社会構造の変化、そしてヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国の植民地主義(3)や帝国主義(4)も背景とした日本との関わりの中で、日本人は「吹奏楽」と出会いまし

      • 黒船の軍楽隊 その19

         1853年7月8日(嘉永六年六月三日)にペリー艦隊は浦賀沖に来航投錨し、7月14日(嘉永六年六月九日)に久里浜に上陸しました。ペリーはアメリカ合衆国第13代大統領フィルモアの開国を促す親書を浦賀奉行に受け渡し、その回答を1年後に求めることを通告しました。 黒船絵巻 - 4 ペリーの久里浜での軍事訓練の様子が函館図書館所蔵の「夷人調練等之図」に描かれています。 亜米利加人調練之図及亜米利加兵並艦之図  函館図書館の解説によると、西村正信(1)の筆で「谷文一が上陸図と兵士

        • 黒船の軍楽隊 番外編 ドラムスティック

           函館図書館が所蔵する「異国人之絵」には1804年9月29日(文化元年9月7日)に長崎を訪れたロシア使節ニコライ・レザノフを含む6人・鑓・5つの旗が描かれています。描かれた人物の1人は鼓手です。 異国人之絵 魯西亜帝国(Россійская Имперія1721-1917年)は、1792年にアダム・ラクスマン(Адам Кириллович Лаксман1766-1806以降に死去)を使節として派遣しましたが松前藩との交渉で、長崎への入港許可証(信牌)を交付されましたが

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        黒船の軍楽隊 その1

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          黒船の軍楽隊 その18

           1854年(嘉永7年)1855年(安政元年)の米英露3カ国との和親条約締結は、外国船来航の活発化につながり、諸外国との通商条約締結につながりました。 ペリー以外の記録 – 8 (仏蘭西) 日米和親条約で開港された函館港を1855年と1856年に利用した外国軍艦の記録が箱館市史に(整理漏れがあるという前提で)記されています。 1855年と1856年に函館港を訪れた外国軍艦  1854年3月に条約締結のアメリカ軍艦が4艦、同じ1854年10月のイギリス軍艦が13艦、185

          黒船の軍楽隊 その18

          黒船の軍楽隊 その17

           1854年10月14日 (嘉永7年8月23日)に日英和親条約が締結しました。  1854年 3月31日 (嘉永7年3月3日) の日米和親条約と1855年 2月 7日 (安政元年12月21日) の日露和親条約の締結の間の期間に日英和親条約は結ばれました。  1853年から1854年のペリーの軍楽隊や1554年から1556年にかけてのプチャーチンの軍楽隊の記録はいくつかあります。  ということは、イギリスの船にも軍楽隊が乗船していたのに違いがありません。 ペリー以外の記録 –

          黒船の軍楽隊 その17

          黒船の軍楽隊 番外編 ヘンデルの行進曲

           1854年のペリーの日本来航時には、ヘンデル作曲のオラトリオ「サウル」の「葬送行進曲」が演奏され、3人の海兵隊員が横浜(1名、後に下田に改葬)と函館(2名)に埋葬されました。 "熊おやじ 提督マシュー C. ペリー サミュエル・モリソン著の「“熊おやじ”提督マシュー C.ペリー」P.370に「海兵隊の衛兵が片手を背の後ろに銃を逆さにして握り(リバースアーム)、横笛と覆いをかけた小太鼓(1)でサウルの葬送行進曲を演奏した。」(There was a guard of mar

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          黒船の軍楽隊 番外編 ヘンデルの行進曲

          黒船の軍楽隊 番外編 - ロシアンホルンオーケストラ

           『発明家はホルン・オーケストラで使われるまっすぐなホルンを「牡羊の角」のようにリング状や渦巻き状に曲げて、行軍中や馬上での持ち運びを容易にしようと考えた』 ロシア唯一の音楽ジャンル 知らないことは今もこれからもたくさんあるのだと「黒船の軍楽隊-16」の記事を書いていて気付かされました。  「Рогово́й орке́стр(ホルン・オーケストラ)」はロシア唯一の音楽アンサンブルで、1751年にG.ナルイシュキン(1)の命によりヤン・マルシュ(2)が2オクターブの音域を

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          黒船の軍楽隊 番外編 - ロシアンホルンオーケストラ

          黒船の軍楽隊 その16

           18世紀後半の産業革命による工業の飛躍的な発展は、金管楽器の大量生産にもつながりました。木管楽器のような有鍵や有穴の金管楽器も、19世紀初頭の金管楽器用ヴァルブの開発によりアンサンブル旋律楽器として活用場面が広がりました。 ペリー以外の記録 – 6 (魯西亜 の4) 来航したロシアの軍楽隊は金管楽器と打楽器を主として編成されていました。そこで使用されている金管楽器は、チェルベニー製の可能性が高いのではないかと推測します。それは、А. レヴァーシキン(А.Левашкин)

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          黒船の軍楽隊 その16

          黒船の軍楽隊 その15

           江戸時代に江戸幕府や諸大名に仕えた御用絵師は、それぞれの藩主らの命により様々な絵を描きました。福岡藩は1641年から長崎の警備を命じられ佐賀藩と共に長崎御番を務めていました。福岡藩の尾形探香は、露西亜の長崎来航の際に御用絵師として「ロシア使節団図」を描きました。 ペリー以外の記録 – 5 (魯西亜 の3) 尾形探香が1853年(嘉永6年)に長崎に来航したロシア使節団を描いたスケッチが「ロシア使節団図」として福岡県立美術館に所蔵されています。 ロシア使節団図  福岡藩御

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          黒船の軍楽隊 その15

          黒船の軍楽隊 その14

           エフィム・プチャーチン(Евфимий(Ефим) Васильевич Путятин1803 -1883)は、1853年に長崎に来航し1855年2月7日(安政元年12月21日)には下田で日露和親条約を締結しました。なお、日本との交渉中の1854年12月23日(嘉永7年11月4日)の安政東海地震(1)による津波による被害やその後の嵐により船を失ったプチャーチンは、代船「ヘダ号」(2)を日本で建造して帰国しました。 ペリー以外の記録 – 4 (魯西亜 の2)嘉永六年丑七

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          黒船の軍楽隊 その14

          黒船の軍楽隊 その13

           魯西亜帝国(Россійская Имперія1721-1917年)は、1792年にアダム・ラクスマン(Адам Кириллович Лаксман1766-1806以降に死去)を使節として派遣しましたが松前藩との交渉で、長崎への入港許可証(信牌)を交付されましたが長崎へは向かわずに帰国しました。その「信牌(1)」を手にニコライ・レザノフ(Никола́й Петро́вич Реза́нов1764-1807)は、1804年(文化元年)9月に長崎の出島に来航しました。

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          黒船の軍楽隊 その13

          黒船の軍楽隊 その12

          オランダの黒船にかかわる図録は他にもいくつか見ることができます。 ペリー以外の記録 – 2 (阿蘭陀の2) 新板画阿蘭陀人舩中之圖 川原 盧谷(1)の「新板画阿蘭陀人舩中之圖」は、描かれた年が不明ですが、6人の楽器奏者(図1)が「蘭人コープス一行立山役所訪問図」(図2)で描かれた軍楽隊員と同様の制服に見えます。したがって、ここに描かれているのは、1844年に来航した軍艦パレンバン号の甲板の様子だと思われます。 (図1)には2人の金管楽器奏者が描かれていて、「クロマチッ

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          黒船の軍楽隊 その12

          黒船の軍楽隊 その11

           イギリスのアヘン貿易に対する中国清朝によるアヘン販売禁止措置に始まる「アヘン戦争(1840-1842)」でイギリスは勝利し、清朝にとって不平等な香港の割譲を含む南京条約を結びました。  このことを知った江戸幕府は異国船打払令(外国船は理由のいかんを問わずただちに打ち払う)を緩和し、漂着した外国船には食料、薪水を給与して退去させることとする(1842:天保13年)など、海外事情による外交政策の変更も行いました。 ペリー以外の記録 – 1 (阿蘭陀)  1600年(慶長5)に

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          黒船の軍楽隊 その11

          黒船の軍楽隊 その10

           松代藩主真田幸教(1)が松代藩士医師高川文筌(2)と能役者樋畑翁輔3)の二人に命じて作成した図版記録をまとめたと思われる大英博物館所蔵「ペリー絵巻」には帽子・硬貨・傘・農具など様々な物品や、軍楽隊で使用している楽器も描かれました。これが元史料の一つになり、様々な写しが作られました。 黒船絵巻 – 3  大英博物館所蔵「ペリー絵巻」「楽器鳴物兵糧入銀銭銅銭ボタン仐ノ図」(図1)には、金管楽器6種、木管楽器2種、打楽器3種が描かれています。 大英博物館所蔵「ペリー絵巻」

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          黒船の軍楽隊 その10

          黒船の軍楽隊 その9

           ペリーは、音楽会や夕食会を開催したり軍事訓練を実施したりして、アメリカ合衆国の優位性を示す機会を意図的に演出したようです。 黒船絵巻 – 2  大英博物館所蔵「ペリー絵巻」には「應接場調練乃図」(図1)が描かれています。絵巻に描かれた順番などから、この調練が行われたのは1854年3月から4月の期間に横浜で行われたのではないかと考えられます。 應接場調練乃図  しかし、S.W.ウィリアムズの「ペリーの日本遠征」にはこの期間の軍事演習に関すると思われる明確な記述はみつかり

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          黒船の軍楽隊 その9