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黒船の軍楽隊 その14

 エフィム・プチャーチン(Евфимий(Ефим) Васильевич Путятинエフィーミー(エフィム)・ヴァシーリエヴィチ・プチャーチン1803 -1883)は、1853年に長崎に来航し1855年2月7日(安政元年12月21日)には下田で日露和親条約を締結しました。なお、日本との交渉中の1854年12月23日(嘉永7年11月4日)の安政東海地震(1)による津波による被害やその後の嵐により船を失ったプチャーチンは、代船「ヘダ号」(2)を日本で建造して帰国しました。 

ペリー以外の記録 – 4 (魯西亜 の2)

嘉永六年丑七月魯西亜船四艘入津之図

 早稲田大学図書館に所蔵の「嘉永六年丑七月魯西亜船四艘入津之図かえい ろくねん うし しちがつ ろしあせん よんそう にゅうしん の ず」(図1)には、プチャーチンの軍楽隊が描かれています。この図は、1853年8月(嘉永6年7月)に長崎に来航した様子を描いたものです。

「嘉永六年丑七月魯西亜船四艘入津之図」(図1)

 上陸ボートには金管楽器奏者・打楽器奏者が2名ずつ描かれています。打楽器は小太鼓でしょうが金管楽器名は見当がつきません。

上陸ボートの4名の軍楽隊員(図1-2)

 ボート中心に座する人物はプチャーチン提督でしょうか。

行列図 (図1-3) 

 12名の軍楽隊員が描かれ、打楽器2名・管楽器10名が行列の先頭で演奏をしています。なお、「軍楽隊は、鼓笛4名、ホルン2名、ボンバルドン2名、ラッシアンビューグル4名で構成され、ロシア国歌を演奏した。」との記述もあります。

軍楽隊員 (図1-4)

魯西亜使節応接図ろしあ しせつ おうせつず

 早稲田大学図書館が所蔵するこの作者不明の図録は、1853年8月(嘉永6年7月)に長崎に来航したプチャーチンの軍楽隊が描かれています。

魯西亜使節応接図部分 (図2)

 14名の軍楽隊員が描かれ、打楽器2名・金管楽器12名が行列の先頭で演奏をしています。「嘉永六年丑七月魯西亜船四艘入津之図」に描かれた軍楽隊員数12人と隊員数が異なります。金管楽器名は、ホルン・ビューグル・サクソルンかとも思われますが推測も困難です。

 軍楽隊 拡大(図2-1)

魯西亜人初テ来朝登城之図ろしあじん はじめて らいちょう とじょう の ず

 神戸市立博物館が所蔵するこの図録には、小太鼓2名と金管楽器10名、合わせて12名編成の軍楽隊が描かれています。この図録も1853年8月(嘉永6年7月)に長崎に来航したプチャーチンの軍楽隊が描かれています。この「魯西亜人初テ来朝登城之図」と「魯西亜使節応接図」の構図は左右反転されていますが、よく似ています。

魯西亜人道中備大波戸より西御役所江罷出候図 (図3)

12名の軍楽隊員が描かれ、打楽器2名・金管楽器10名が行列の先頭で演奏をしています。「嘉永六年丑七月魯西亜船四艘入津之図」と隊員数が同じですが、左右対称にも見える「魯西亜使節応接図」の12人とは異なります。金管楽器名は、ホルン・ビューグル・サクソルンかとも思われますが判読不能です。

(図3-1)  

長崎版画

 講談社が1961年に出版した「日本版画美術全集 第6巻 」のP.143 に作者版元不明の軍隊陸上図(Russian soldiers landing at Nagasaki)にも軍楽隊が描かれています。

軍隊上陸図 (図4)


魯西亜軍隊行列

 神戸市立博物館が所蔵する長崎版画の一つです。

魯西亜軍隊行列 (図5)
(図6) 




脚注

(1) 安政東海地震は、1854年12月23日(嘉永7年11月4日)午前9時〜10時頃に発生しロシア船員を含む2000〜3000人が犠牲になったと言われています。
(2) 下田沖で難破したディアナ号のロシア船員帰国用に戸田村へだ むらで建造された60人乗りの「ヘダ号」は、ディアナ号乗員(約500名)の全てが乗船できないため、残りの乗組員はアメリカ船やドイツ船で帰国の途につきました。 


(図1) 36.3×435.6cmの絵巻の図の部分
(図1-2)上陸ボート上のプチャーチンと軍楽隊員
(図1-3)70名程が描かれていて、先頭には12名の軍楽隊員が楽器を演奏しています。
(図1-4) 12名の軍楽隊員は2名の小太鼓と10名の金管楽器奏者と推察します。
(図2)早稲田大学図書館が所蔵
(図3)神戸市立博物館が所蔵
(図4)日本版画美術全集 第6巻 P.143
(図5)魯西亜軍隊行列
(図6)魯西亜軍隊行列の別刷り


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ファーイーストの記事

「ザ・ファー・イーストはジョン・レディー・ブラックが明治3年(1870)5月に横浜で創刊した英字新聞です。
 この新聞にはイギリス軍人フェントンが薩摩藩軍楽伝習生に吹奏楽を訓練することに関する記事が少なくても3回(4記事)掲載されました。日本吹奏楽事始めとされる内容で、必ずや満足いただける読み物になっていると確信いたしております。

 是非、お読みください。

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「ザ・ファー・イースト」を読む その5   和暦と西暦、演奏曲
「ザ・ファー・イースト」を読む その6   バンドスタンド
「ザ・ファー・イースト」を読む その7   バンドスタンド2 、横浜地図

SATSUMA’S BAND 薩摩藩軍楽伝習生

writer HIRAIDE HISASHI


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