常識は非常識になりうる
「常識」とは何か。
日頃使われるこの言葉も意外と説明しづらい。
しかし、それらしき状況になった時には使ってしまう。
そんな常識を掘り下げてみようと思う。
私は2種類の常識があると考えている。
1つ目は、通常な人間が持っている共通した知識、価値観などの集合。
2つ目は、ある業界においてそこにいる者が知っているであろう共通した知識、価値観の集合だ。
1つ目から述べていく。
まず通常な人間とは何か。
これはある社会集団に所属している人間の事だ。
例えば日本やアメリカといったようなことだ。
つまり日本人の常識というと、義務教育を受け知っていなければならない知識、学んでいなければならない価値観などの集合ということになる。
次に、2つ目について述べていく。
1つ目によく似ているが、
注目すべきは範囲が限定的なことだ。
例えばスポーツや教育、学問など細分化すればいくらでも業界というものは形成できる。
そこの住人たちは共有知識として価値観や推奨される行動、悪手などをそれぞれ知っている。
その共有知識の事を常識と呼んでいるのだ。
また、例外として個人のみで形成される常識も存在している。
しかし、この常識は他人とは共有されることはほぼない。
常識の説明はこのくらいとして、
落とし穴があることを述べていきたい。
先の説明で常識は基本的に集団で形成されると述べたが、
ここが落とし穴になりうるのだ。
例えば、海外旅行に行くとき日本の常識が通用するだろうか?
確実に通じないだろう。
なぜなら、日本とは別の仕組みでその国は
集団を形成しているからだ。
集団が違えば常識も違うのだ。
また国単位の視点で見ると、常識は文化的側面を持ち合わせているといえるだろう。
国単位で集団が変われば常識が違うことは容易に理解できるが、注意しなければならないのは2つ目の常識の方だ。
厄介な点は、相手がこちらの常識を持ち合わせているか情報がなければ分からないところだ。
この常識は家族という少人数でも形成される。
つまり、こちらが常識的な行動をとっても
相手からしたら非常識な行動になっている可能性があるということだ。
これは逆もしかりで、相手にとっては常識的な行動でもこちらからすると非常識に見えるという図式が成り立つ。
常識は一種の暗黙知になっているので、
こういった弊害が起こりうる。
あまりに自分にとっては当たり前でも、
相手からしたら違うかもしれない。
今一度常識的なことをするときは、
本当に常識的かどうか吟味する必要がありそうだ。
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