【今日のnote】最果タヒさんの「踏切の詩」を読んで。
どうも、狭井悠です。
毎日更新のコラム、106日目。
東京滞在も、気づけば、何気なく延泊を続けて、5日目くらいが過ぎてしまいました。明日には、三重県の事務所へ戻って仕事をしようかな、と。
数日前に、Twitter経由で読んだ小さな詩が、ずっと心に残っているので、紹介させてください。詩人の最果タヒさんの「踏切の詩」です。
以下、原本の添付して、書き起こしもやってみます。
好きって言える可能性だけが減っていくように、また朝がくる。寿命が無限だと思い込めるから海や山を見るのが、ひとは好きだ。何にも得られなくていいよ、お金をたくさん使って命をすり減らして傷ついて、何にも得られなくていいよって、揺れているススキのような友達が、すてきにみえて多分ぼくはもうだめ。人としての理性を見失っている。そこから、青春がスタートです。発射した銃弾、こめかみにたどり着くまで70年。恋愛しましょ。
ううん、なんだ、これは。
めっちゃ良くないですか?
書き起こしをしてみて、言葉選びの破壊力に、改めて驚きました。これが、プロの詩人の仕事なんですね。すごいな。
胸に秘めた想いの衝動が、一度も途切れることなく、死生観と俗世の苦悩の中を走り抜けて、めちゃくちゃポップな「恋愛しましょ。」の一言に行き着く。
誰にでも書ける文章ではないな、と思い知らされた感じです。
そして、何よりも、現在の僕が、毎日考えていることが、この詩の中に凝縮されていて、とても驚きました。ちょっと、詩になぞらえながら、ここ最近の所感を、徒然に書いてみます。どうでも良い読み物ですが、おヒマな方はお付き合いください。
好きって言える可能性だけが減っていくように、また朝がくる。寿命が無限だと思い込めるから海や山を見るのが、ひとは好きだ。
最近は、朝起きるたびに、少しだけ哀しい気分になるんです。それは、自分の思い通りにはいかない、コントロールできないことに、寝起きの無防備な時間だけは、素直に向き合ってしまうからです。
そして、もう、いっその事、何もかも忘れてしまって、自然に分け入り、林の中の象のように、孤独に生きたいと願います。そのように生きれば、今の自分が抱えている、様々な苦悩から離れ、永遠に生きられるように錯覚することだってできるから。
でも、結局それは、僕の単なる妄想でしかありません。実際の僕は逃れようもなく人間であり、地元と東京を往復する、居場所をもたない旅人です。
ホタルのように、ゆらゆらと、影のように生きて、何物にも囚われることのない、光ある文章をいつか書き残したいと願いながらも、一方で、誰かの心の奥に自分を残したいだとか、自分のことを忘れずにいてほしいだとか、そういう類の実存の達成にも飢えている、煩悩に囚われた存在なんです。
何にも得られなくていいよ、お金をたくさん使って命をすり減らして傷ついて、何にも得られなくていいよって、揺れているススキのような友達が、すてきにみえて多分ぼくはもうだめ。人としての理性を見失っている。
だいたい、歌舞伎町のような街に夜通し居座っていると、わりとこんな感じの光景を毎日のように目の当たりにすることになります。
僕は最近、商売をしている友達が身近にいることもあって、東京に来るとだいたい新宿の歌舞伎町を拠点にして過ごしています。それで、昼間はフリーランスの仕事をして、夜は繁華街を行ったり来たりしているわけです。
この街に集まる男女は、皆それぞれに、消化できない、表に出すことのできない「何か」を心の中に抱えていて、それを埋めるために、美味しいご飯を食べてみたり、バーやクラブや水商売の店でお金をたくさん使って、華やかな異性と出会い、お酒を大量に飲んでみたりするのだけれど、やはり、寂しさに淋しさを重ねても、残るのは、また新しい「さみしさ」なんですよねえ。
でも、僕はこうした、一見不毛にも見える夜の街で繰り返される男女のやりとりが、どうにも人間臭くて、愛おしいものであるようにも思えてしまうんです。なんだか、そういうのって、パチパチと暗闇の中で派手に弾けては消える、花火の火花みたいで、素敵じゃないですか? なんとも儚げで、流星みたいだなと思ったりもする。なんとなく、DAOKOの「水星」を思い出した。
人間は脆く、そして弱い。そんなことを、歌舞伎町に居座っていると、つくづく思うんですよね。
ただ、僕のこの街との接し方は、ちょっと特殊で、こんな中立な立場で、夜の街を比較的安全に楽しみながら歩けるのも、周りにいる仲間たちのおかげなんだと思うんですよ。だから、友達には、とても感謝しています。
おそらく、夜の街って、本質的には怖い一面も多分に持っているはずだと思うんです。一歩踏み外せば、修羅が闊歩しているし、罠がたくさん張られています。だから、本来は、身一つで来る場所ではないのかもしれません。
ただ、僕はこういう、現代が生み出した煩悩の坩堝(るつぼ)みたいな場所を、誰に強制されるでもなく、ふらふらと歩き回っている感覚が、どうにも好きなんです。
ちょっと無頼に憧れているというか、破滅主義的なところがあるんだろうなあ、と恥ずかしながら自覚しています。太宰治とか、中島らもが昔から好きなので、本質的には、酒好きの、どうしようもない人間なのかもしれません。いや、間違いなく、どうしようもない人間なんだろうなあ。閑話休題。
そこから、青春がスタートです。発射した銃弾、こめかみにたどり着くまで70年。恋愛しましょ。
昨日、歌舞伎町でお店をやっている親友とふたりで、のんびりとご飯を食べたあと、羽目を外して夜遊びをしていました。
そこで話題に出た内容で、「過去に好きな人がいたけれど、もう、あの頃以上に好きになれる人はいないと思っている」といった言葉があったんですね。
なるほどなあ、と思いました。確かに、過去の恋愛で忘れられない経験というのは、誰しもきっと、ありますよね。僕にもある。
ただ、僕は、個人的には、いつだって今の自分が最新であると思っていたいタイプなので、過去を超えられないという風には思いたくないんです。
いつだって、今出会っている人たちが一番素敵なんだと思いたいし、実際に、割と本気で、そう思っています。
それに、最果タヒさんの詩のとおり、こめかみに銃弾が届くまでには、まだまだ時間がある。だったら、ここからまた青春だと思って、楽しんでやろうじゃありませんか。
てか、何度読んでも、最果タヒさんの詩の「恋愛しましょ。」の締めのポップさが良いな。あまりにも軽快で、言葉が踊っているようにすら見える。
たとえ今、ダメな自分や思い通りにならない何かを抱えていたとしても、何度でも出会って、何度でも幸せになれそうな気がしますね。年甲斐もなく、そうやって、バカみたいに生きてやろうかしら。
今日は二日酔いも抜けないし、仕事もはかどらないので、思い通りにいかないことに想いを馳せながら、たまには湿っぽい文章でも書いてやろうかと意気込んでいたのですが、残念ながら、書けば書くほど、どんどん元気になってしまいました。
つくづく、自分というものが、一番よくわからないなと思います。
でも、どれだけその日の気分がよくなったとしても、結局のところ、「好きって言える可能性だけが減っていくように、また朝がくる。」わけです。
だから、好きだなと想っている人たちにはちゃんと好きだと伝えていきたいし、もしも伝えることが叶わなかったのであれば、せめて、出会えたことに感謝して、祈ることにしたいです。夜の空を見上げて、祈りましょう。ありがとう、ありがとう。本当に、ありがとう。良い一日でありますように。
今日もこうして、無事に文章を書くことができて良かったです。
明日もまた、この場所でお会いしましょう。
それでは。ぽんぽんぽん。
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