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人はなぜ物語を求めるのか|物語化する/される私たち #1

 人は物語る動物である。

 私たちは起こった出来事を因果関係の上で捉え、あらゆる物事をストーリー化する。そのストーリーを表現するために、しばしば物語(ナラティブ)という形式を用いる。

 突然だが、ここでひとつなぞなぞを出そうと思う。

 ある地域で、100パーセント雨が降る伝統的な雨乞いの踊りがある。
 さて、それはいったいどんな踊りか?


 正解は、「雨が降るまで踊り続ける」ことである。

 なんだか肩透かしな答えである。そんなの当たり前、ただの屁理屈だと思った人もいるかもしれない。ここで「おまじないをした」ことと「雨が降った」ことの間には本当はなんの関係性もないわけだが、両者の出来事を認識する人は、「おまじないをした」から「雨が降った」という風に、ただの前後関係やただの相関関係を「因果関係」にすり替えてしまうのだ。

(このnoteは、千野帽子『人はなぜ物語を求めるのか』(ちくまプリマー新書)で書かれた内容に基づいています)

因果関係を見出す『ストーリー』という認知形式

 雨乞いなんて馬鹿馬鹿しい信仰だと思うかもしれないが、しかしこうした例は身の回りにありふれている。なにか不運に見舞われた時、わたしたちは「バチが当たった」「日頃の行いが悪い」という風に、なんの関係性もない出来事を結びつけて考える。あるいは降ってわいた幸運を「徳を積んでいたからだ」とか「神様が見ていてくださったのだ」と信仰や宗教に結びつけて考える人もいる。そうした思考のクセを、わたしたちは知らず知らずのうちに持ち合わせている。
 勧善懲悪の童話や物語だって、「悪いことをしたから天罰が下る」という風に作られている。こうした考えは、私たちが社会生活を営む上での道徳規範の要となっている一方、そうした考えが誤った方向に向かうこともある。

 このストーリーという認知形式は、物事をよりわかりやすくしたり、人間の救いになる一方で、私たちを苦しめる足枷にも成りうる。

「ストーリー」は人間の認知に組みこまれたひとつのフォーマット(認知形式)です。それ自体は、ただの事実であり、いいことでも悪いことでもありません。人間はストーリー形式にいろいろな恩恵を受けています。それなしには人間は生きられないと言ってもいいくらいです。
 人がストーリー形式が理解できなくなったときは、記憶や約束といった「まともな社会生活」に必要なものがその人のなかで壊れてしまっています。ストーリーが人を救うこともありますが、そのいっぽうで、僕、あるいはあなた、ひとりひとりの人間の個別の状況によっては、逆にストーリーが人を苦しめたりすることがあります。
(千野帽子『人はなぜ物語を求めるのか』ちくまプリマー新書より引用)

  例えば「私は何者か」と自己紹介することひとつとっても、「◯◯という国の◯◯に生まれて、◯◯大学を卒業後、◯◯の仕事を始めて...」といった風に、ストーリー形式を用いる。わたしたちはこのように、時間的前後関係のなかで世界を把握しようとするのだ。

 本記事から数記事に渡って、千野帽子著『人はなぜ物語を求めるのか』で書かれている内容を主軸に、人が他者や自分自身をストーリー化してしまう習性とその弊害について、わたしたちが”物語”の呪縛から逃れるための方法を、書籍や音楽などの解説も交えながら書いていく。

 第一回目となる今回は、人が持つストーリーという認知形式と、ワイドショーやニュースなどのメディアで作り上げられる物語、そして新型コロナウィルスの陰謀論と差別を生み出す私たちの認知の歪み(公正世界説の誤謬)について書いていきたい。

メディアを通して描かれる物語の虚像

 さて、ここまで述べたように、ストーリー形式は私たちの生活を円滑にする一方、ストーリーが私たちの考えを狭めることもあるという。ストーリーが人を苦しめる時というのは、一体どのような状況なのだろうか。

 山田詠美の短編集『ぼくは勉強ができない』の中の「丸をつけよ」という章で、主人公の秀美は、学年主任に「真面目な学生生活を送っていないと女手ひとつで育ててくれたお母さんが悲しむに決まっている」と叱られたことに対しこう反駁する。

『ぼくは、昨日のテレビ番組を思い出した。子供を殺すなんて鬼だ、とある出演者は言った。でも、そう言い切れるのか。彼女は子供を殺した。それは事実だ。けれど、その行為が鬼のようだ、というのは第三者がつけたばつ印の見解だ。もしかしたら、他人には計り知れない色々な要素が絡み合って、そのような結果になったのかもしれない。母親は刑務所で自分の罪を悔いているかもしれない。しかし、ようやく心の平穏を得て、安らいで罰を待ち受けているかもしれない。明らかになっているのは、子供を殺したということだけで、それに付随するあらゆるものは、何ひとつ明白ではないのだ。ぼくたちは、感想を述べることは出来る。けれど、それ以外のことに関しては権利を持たないのだ。』 山田詠美『ぼくは勉強ができない』より引用

「片親だから息子が不良だと母親が悲しむ」(実際は、秀美の母親は秀美以上に奔放な人である)というのも学年主任が勝手に作り上げたストーリーである。しかし、彼はそれが当然の前提かのように秀美を叱る。

(これは後の記事で詳しく触れるが、こうしたストーリー化は、他者から自分、自分から他者に向かうこともあれば、自分から自分へ向かう、つまり自分で自分のストーリーを構築することもある。例:「子どもの頃人見知りだったから、他者とうまく関係を築けない」など)

 ワイドショーなどをみていると、犯人の生い立ちや経歴、普段の振る舞いがことさらに報道されることがある。これもある種、私たちのストーリー化したがる習性を利用しているとも言える。誰かが不倫をした、誰かが不正をした、誰かが人を殺した、その背景にあるストーリーを、合理的な理由を、私たちは必死で見出そうとする。それが合っていようと、間違っていようと。

 彼はそういった、表面的な事実をもとに誰かの境遇を勝手にストーリー化し断罪する行為に対し、「感想を述べることは出来る。けれど、それ以外のことに関しては権利を持たない」との結論に至る。

 私たちは他者に対して、勝手な憶測で何かをいう権利はない、だからこそ、秀美は「すべてに、丸をつけよ。とりあえずは、そこから始めるのだ。そこからやがて生まれて行く沢山のばつを、ぼくは、ゆっくりと選び取って行くのだ。」と全てを肯定し、そこから自ら考え、選び取ろうとするのだ。

新型コロナウィルスの陰謀論と差別が流行るのは何故か

 人間は、世界は公正である「べき」で、さらにはそうある「はず」だと考えている。そして、そうした前提のもとにストーリーを構築しようとする。こういった考え方を、公正世界の誤謬(ごびゅう)と呼ぶ。

 公正世界の誤謬とは「世界は突然の不運に見舞われることのない公正で安全な場所であり,人はその人にふさわしいものを手にしているとする信念」のことである。「世界は公正で安全な場所であり,人はその人にふさわしいものを手にしている」という考えは、反転させると、「突然の不幸に見舞われる人は、それ相応の理由がある」という誤った考えになる。

 痴漢をされた人に対し、「被害者に落ち度があったのでは」という人、盗まれた人に対して「不用心だったからだ」という人、ホームレスに対し「自己責任」だと冷たく当たる人、これらは、公正世界の誤謬(ごびゅう)によるものだと言える。

 いま、私たちは新型コロナウィルスによって、理不尽な困難にさらされている。「世界は突然の不運に見舞われることのない公正で安全な場所」であると思いこんでいると、突然の理不尽を受け入れることができない。

 そうするとどうなるか。物語をでっち上げるのである。その最たるものが、陰謀論と差別だ。「新型コロナウィルスは誰かが悪意を持ってもたらしたものである」という物語を構築する人々は、陰謀論にのめり込む。日本でも、「コロナは嘘」という看板を持ってデモを行う人々や、マスクを外してデモをする人々が見られた。ネット上でも、「コロナそのものがでっち上げである」ということを延々と書き連ねたサイトがあったりもする。アメリカでは、「Qアノン」という陰謀論が広まっている。

 そして、「私たちではない別の人種がやってきたせいだ」という物語を構築する人々は、人種差別によって他者を攻撃する。 アジア人へのヘイトクライムはますます過激化し、理由なく人が傷つけられる痛ましい事件がニュースなどで報道されている。加害者達は、新型コロナウィルスが流行ったことをアジア人という属性に責任転嫁することで、溜飲を下げているのだ。

 こうした差別や人種差別に傾倒してしまう人はごく一部とはいえ、しかしながら、理不尽な出来事に対して無理な解釈を持ち出すことで心の安定をはかることは、人間が誰しも持ち得ている性質であるとも言える。

 私たちは世界を理解しようとするとき、自分を納得させるために、しばしば粗雑で原始的なストーリーを構築しようとする。「コロナが流行っているのは政府のせい」「アジア人のせい」あるいは「若者のせい」「遊び呆けていた人々のせい」...etc
 新型コロナの発生と蔓延は、これだ、というひとつの原因があるわけではない。複雑化した事象を単純化することで、わかったような気になったとしても、本質とはかけ離れている。
 新型コロナウィルスに罹患した人のことを責める風潮も、こうした、「世界は公正である」という思い込みから生まれているとも言える。

 陰謀論を信じる人々を側から見ていると、馬鹿馬鹿しいと思うかもしれない。彼らは自ら作り上げた「物語」を、信じ込んでいるため、いくら周りが否定しようと、それを壊すことは、すなわち自分の構築している世界を作り変えることになる。だからいつまでも同じ考えに固執する。

 しかし一方で、私たちは自分たちの意思によって、世界をストーリー化する方法を変えることができる。
 第二回目の記事では、最果タヒ『十代に共感する奴はみんな嘘つき』や、かつて不登校であった人のインタビューなどを取り上げつつ、私たちが「過去」そして「未来」をストーリー化する習性とそこからの脱却方法について取り上げる。

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続きは「物語化する/される私たち」マガジンに更新予定なので、よければ読んでみてください。

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