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純度の高い恋は地に落ちて、いっそう輝く

連載シリーズ 物語の“花”を生ける 【プロローグ】はこちらから

第1回 ナイチンゲールとばらの花 (オスカー・ワイルド)

子どもの頃、女優の岸田今日子さんや宮城まり子さんらが声優となって、世界の名作童話を語るというテレビアニメがあった。童話といっても昔話やおとぎばなしの回もあれば、世界の近現代の作家が人間の真善美やかなしみを描いた短編作品の回もあった。

私は基本的に昔話やおとぎばなしの回の方が好きで、人間の真善美やかなしみを描いたものは、どこか説教くさくて暗いなと思っていたので、そんな回のときは、チャンネルを回して別の番組をみた。

昔話やおとぎ話の回はカラフルな通常のアニメーションなのだが、その日は、白いキャンバスに木炭でドローイングしたようなアニメがはじまったので、今日は暗い話の回だと思って、いつものようにチャンネルを回した。ところがほかのチャンネルにはあまり興味の引くものがなくて、結局、世界の名作童話に戻ってきて、仕方なくそれをみることにした。

ある青年には好きな女性がいる。その女性から真っ赤なばらを持ってきたら、あなたの愛を受け入れると言われるのだが、彼のまわりには赤いばらなどはなく、絶望している。

その青年に恋しているカナリアは、赤いばらを求めて街中をたずねまわる。そして青年の住まいの前にあるばらの木の刺に心臓を突き刺せば、赤いばらを咲かせることができると知って、迷うことなく刺に自らの心臓を押しあてた。

夜明けとともに青年が窓を開けると、一輪の真っ赤なばらが咲いている。それを手に取って嬉々として好きな女性のところに行くが、そんなもので私の気持ちを得られるわけがないと、にべもなく断られてしまう。がっかりした青年は、ばらを道端に投げ捨ててしまう。

たしかそんな話だった。

長い間、思い出すこともなったのだけれど、ある日、胸の中で、白いキャンバスに木炭で描いた挿絵のようなアニメーションが再生された。カナリアの命と引き換えに咲いたばらだけが真っ赤で、それが地面に落ちた。

あれはいったいなんという物語だったのか。おぼろげな記憶をたよりに「カナリア 青年 赤いばら」というキーワードで検索してみる。カナリアだと思っていた鳥はナイチンゲールという鳥で、オスカー・ワイルドの「ナイチンゲールとばらの花」という物語であることをつきとめた。

オスカー・ワイルドといえば、19世紀末にロンドンやパリを拠点に詩人、劇作家、作家として活躍した。童話「幸福の王子」や戯曲「サロメ」などを知っている人も多いのではないか。

「ナイチンゲールとばらの花」は、9編の短編が収められている表題『幸福な王子』(新潮文庫)で読むことができる。

恋は宝石や黄金より貴く、命にもまさるもの

青年は哲学を修める学生で、好きな女性は教授のお嬢さん。恋や愛が何なのかがよく分かっていなくて、恋や芸術は、論理学や哲学といった形而上的なものよりは劣ると考えている。ナイチンゲールが彼を思って歌で語りかけても、その歌声は美しくはあるが何の役にも立たないと思うような青年だ。

また女性の方も、青年が好きか嫌いかというより、身分や肩書き、宝石が最上のものであり、愛だの恋だの花だのといったものは、一顧だにすべき価値のないものだと考えている。

一方ナイチンゲールは、青年が恋に煩悶する姿に、それまで歌の世界だけでしか知らなかった本物の恋のありようを見出し、「恋とは不思議なものだ。エメラルドよりも貴く、みごとなオパールよりも高い。真珠や石榴石でも買えなければ、市場に陳列されてもいない。商人から買うこともできなければ、黄金と引きかえに天秤で秤りわけることもできない」と考える。ナイチンゲールにとって恋は哲学より賢く、権力よりも強いものなのだ。

そして、あなたの命と引き換えなら赤いばらを咲かせることができるとばらの木に言われると、何の躊躇もなく「恋は命にもまさるものです」と言い切る。そんなナイチンゲールを恋い慕うウバメガシの木は、ナイチンゲールの覚悟を知って、最後に歌ってほしいとたのむ。

いよいよナイチンゲールは月が天上に輝くとき、恋の歌を高らかに歌い上げながらばらの木の刺に、みずから心臓を押し当てる。最初は「少年と少女の胸中に生まれる恋の歌」を歌い、次に「男と女のたましいに生まれる情熱」を歌い、最後には「死によって完成される恋を、墓の中でも死ぬことのない恋」を歌った。

 すると、不思議なばらは真紅になったのです、東の空のばらみたいに。帯状になった花びらは真っ赤で、芯もルビーのように真っ赤でした。
ところがナイチンゲールの声はかすかになり、小さい翼は羽ばたきはじめ、目がかすんできました。歌はしだいにかすかになり、のどに何かつまるものがあるような気がしました。
 それから、ナインチンゲールは最後にひと声高く歌いました。白い月がそれを聞いて、あかつきを忘れ、そのまま空でためらっていました。赤いばらがそれを聞いて、うっとりと全身を打ちふるわせ、花びらを冷たい朝の空気に向かって開きました。こだまが、丘にある紫の洞窟へその声を運び、眠っている羊飼いの夢を覚ましました。歌声は川の葦のあいだをただよい、葦がそのたよりを海へつたえました。
「ほら、ごらん!」ばらの木が叫びました、「やっとばらができあがったよ」。でもナイチンゲールは返事をしなかった、胸に刺を突きさして、長い草のなかで死んでいましたから。

「ナイチンゲールとばらの花」(『幸福な王子』新潮文庫)37ページ

しかしナイチンゲールの思いは虚しく、青年の無知と女性の打算によってばらはうち捨てられ、馬車に轢かれてしまう。

命と引きかえの「赤いばら」 純度の高い精神性

赤いばらが愛を伝え表現する手段であり、その象徴であることは、この物語に限らず、私たちが暮らす現代の社会でも変わらない。

「百万本のバラ」という歌がある。絵描きが女優を好きになり、小さな家とキャンバスを全て売り払って、真っ赤なバラを街中から買い集め、彼女に贈るという歌。もともとこの曲は、周辺の大国に運命を翻弄されてきたラトビアの苦難を歌ったものだったが、ソ連(現ロシア)の詩人がグルジア(現ジョージア)に逃れているとき、女優に恋した絵描きが、彼女の泊まるホテルの前の広場を花でうめつくしたという逸話をもとに作詞し、ソ連の国民的歌手が歌った。

そこからもさまざまな縁を経て、日本では、映画監督で脚本家の松山善三さんや加藤登紀子さんがその訳詞をしたという。松山善三さんや加藤登紀子さんの訳詞を読み比べてみると、加藤さんの訳詞は逸話のエピソードを忠実に訳した印象があるのに対して、松山善三さんの方は情念を込めて「僕のこの命、貴女に捧げましょう」とあり、まさにナイチンゲールのそのものなのだ。

この逸話を読んであれ?と思ったのは、女優が泊まるホテルの前をうめつくしたのは「花」とだけあって、「赤いばら」とは書かれていないことだった。詩人が作詞の際にあえて真っ赤なばらを選び、持てるもの(大切なものや財産、命)と引き換える献身のストーリーに仕立てたのだろう。

十数年前、日本環境アロマ協会の会員として文化委員を務めていたことがあり、「バラの文化史」という発表を行った。そのときの調査でさまざまな文献を読み、キリスト教の文化圏では一時期、ばらはキリスト教の世界の完全性や高い精神性を表し、白いばらは聖母マリアの純潔を、赤いばらはキリストの殉教を象徴したことを知った。

そのイメージに従えば、赤いばらが語る「愛」とは、キリストが民のために(ひいては神のために)そうしたように、他者にその身を捧げることなのだろう。オスカー・ワイルドや「百万本のバラ」を作詞した詩人が、それをどこまで意識したのかは分からないけれど、キリスト教の文化圏で暮らす人々の赤いばらに対するイメージは、無意識のうちにそのようなものだったのではないか。

ナイチンゲールは恋を「その息は乳香のようですわ」という。乳香とは、カンラン科の樹木の樹脂からつくられた香物で、キリストの誕生を祝って東方の三博士によってもたらされ、現在もキリスト教の儀式で使われる。

また、先に引用した赤いばらが咲いた瞬間には「葦」が現れる。刺、葦といえば、キリストが十字架に磔(はりつけ)にされた際、ローマ人の兵士にいばらで編んだ冠をかぶせられ、右手に葦を持たされたことを思い出す。

そして、今手にしている新潮文庫の『幸福の王子』では、ナイチンゲールの物語の前には「幸福の王子」が、その後には「わがままな大男」という物語が配されている。

「幸福の王子」はご存知のように、宝石や金箔で覆われた王子の銅像が、つばめをとおして貧しきものや病めるものにそれらを分け与えてしまう。つばめはとうとう命が尽き、みすぼらしい姿となった王子の銅像も街の権力者によって引き倒され捨てられるが、「貴いものをふたつ持ってきなさい」と神から命じられた天使によって、神の御許に召される。

「わがままな大男」は、あるわがままな大男が、自分の家の美しい庭を街の人々や子どもたちに開放し、そこで遊んでいた子どものひとりを助けるのだが、実はその子はキリストの化身であり、最期「あなたはいつかわたしを遊ばせてくれた。今日はわたしの庭へおつれしよう。天国という庭へ」といって迎えられる。

物語の並びについても、本文庫の編集者や訳者がどこまで意図しかは分からないけれど、これらのことを考え合わせたとき、恋に殉ずるナイチンゲールの物語は、キリストや神との関わりの中で読むものであり、究極的にはキリストの殉教が重ねられているのではないかと、私は考えてしまう。

ナイチンゲールは街中で赤いばらを探し求めるとき、最初は白いばらをたずね、その次に黄色のばらをたずね、やっと赤いばらにたどりつく。白の「純潔」、黄色「黄金」を経て、その果てに赤の「殉教」の精神性を獲得したように思えてならない。


それにしても、「幸福の王子」の王子とつばめ、ナイチンゲールの思いは、現実の社会では踏みつけられるものとして描かれている。金銭や出世、実業、権力に強欲な社会からの仕打ちがひどければひどいほど、芸術や愛ゆえにその身を捧げることによって体現される精神性の純度は高まり、いっそう輝きを増す。

格調高い詩を思わせる文体といい、芸術至上主義、唯美主義といわれ、後年人間の魂が生かされる社会体制にこだわったワイルド。彼がナイチンゲールをして咲かせた赤いばらは、地に落ちたからこそ、私たち読者の胸で鮮やかに咲き続ける。

* * *

ふと窓の外に目をやると、寺院の森から夏の鳥の声がする。その声につられてベランダに出てみると、一羽の鳥が目の前を舞い上がった。

「幸福におなりなさい」

命と引き換えに赤いばらを咲かせようと決心したナイチンゲールが泣き伏す青年に叫んだ声は、どんな風よりもやさしく私の頬をつたった。



●オスカー・ワイルドについては「ふたつの『サロメ』前編」 「ふたつの『サロメ』後編」でも触れているので、そちらもぜひ読んでいただきたい。

●「百万本のバラ」については、以下の記事や WEBサイトを参考にさせていただいた。

「百万本のバラ」誕生秘話 原曲に込められた小国の悲劇(道新りんご新聞 2016年12月18日)

「百万本のバラ」 平岸で歌い継ぐ 平岸人図鑑 第 1 回 ロシア料理&カフェ ペチカ店主 兵頭ニーナさん(道新りんご新聞 2016年12月1日)

松山善三さん訳詞はこちら

加藤登紀子さん訳詞はこちら




第2回 戦国武将の命をかけた花生け 『時今也桔梗旗揚 ときはいまなりききょうはたあげ』 (鶴屋南北)


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