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ふたつの『サロメ』  後編

ホテルのバーラウンジで、ロウソクの明かりをたよりにオスカー・ワイルドの『サロメ』読み、内容もさることながら、挿絵のおどろおどろしさに惹かれた。→前編はこちらから

そして、その挿絵の中でももっとも有名な絵、メデューサのような髪型のサロメが宙に浮いて、血のしたたる生首のヨナカーンに口づけをする、「最高潮」と題された絵を表紙とする原田マハさんの『サロメ』と出会い、その絵に関わった三人の人生をたどることになった。

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原田マハ版の『サロメ』は、オスカー・ワイルドとあの挿絵を描いた画家オーブリー・ビアズリーとの愛憎が、ビアズリーの姉メイベルの目をとおして語られる。

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十九世紀末のロンドン。オーブリー・ビアズリーは、音楽、絵画、語学などの芸術的な才能に恵まれながらも、結核を患い病弱で貧しかった。特に絵画には天賦の才をみせたが、美術学校に通うことはできず、母と姉の家族を支えるために、十五才から会社員として働きながら、独学で絵をかきつづけた。

そんなビアズリーを献身的に支えるのが姉メイベルだった。メイベルは、ビアズリーが偉大な芸術家として世に認められることを信じて、家庭では身の回りの世話をし、ときには自身の女性としての身体を投げ打って、ビアズリーをロンドンの絵画界の重鎮に引き合わせることもした。

そこまでして手に入れた重鎮との面会で、当代の人気作家オスカー・ワイルドと運命的な出会いを果たす。重鎮もワイルドも、ビアズリーのこれまでの伝統的な絵画とは全く異なる、尋常ならざるペン画の世界に魅了される。特にワイルドはビアズリー自身に並々ならぬ関心を示し、芸術面でも性的にもビアズリーとの距離を縮めていった。

ワイルドと深い関係に陥っていくのを心配しながら、何くれとなく世話を焼く姉メイベルをよそに、ビアズリーはワイルドの中に、芸術家として見えている境地が自身と同じものであることをに見出し、ワイルドにのめり込んでいく。

そしてワイルドがフランス語で書いた私家版の戯曲『サロメ』に触発されて描いた「最高潮」と題された絵が評価され、ビアズリーは一躍時代の寵児となる。

その後、ロンドンで英語版の『サロメ』が出版されるという話が持ち上がる。フランス語が堪能で、『サロメ』の世界観に耽溺していたビアズリーは、英語への翻訳と挿絵の両方の担当を希望していた。

ところが、ワイルドとのちょっとした行き違いとメイベルのある画策によって、翻訳はワイルドの別の恋人の手に渡り、挿絵だけを担当することになる。

そのことに落胆し、ワイルドに裏切られたと思い込んだビアズリーは、何かに取り憑かれたように絵を描いた。

 −−見ているがいい。ダグラスの名前を<サロメ>から消してやる。オスカーは、きっと、僕のペンで殺してやる……。
『サロメ』(文藝春秋 2017年)282ページ

その結果、『サロメ』は爆発的に売れたが、ビアズリーの絵はワイルドの戯曲そのものを凌駕し、『サロメ』があの「最高潮」の『サロメ』であることを世間に印象づけるものであった。

メイベルは弟の成功に安堵する一方で、弟が未だにワイルドへの思いを断ち切れずにいることに不安をかき立てられた。そこでまた、あることを画策する……。

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この物語のどこまでが史実・事実で、どこまでがフィクションなのか、その境がまったくわからないところに、今回、私は惹かれた。

史実・事実に材をとった作品はいくつもあるが、ここはフィクションだろうなということが、だいたいわかる。それが分からないというのは、私自身にこの分野についての知識がないからなのかもしれないと思い、ざっとインターネットで調べてみた。

ワイルドもビアズリーも、そしてビアズリーの姉のメイベルも実在した人物。しかし、実際には、ワイルドとビアズリーには本作にかかれているような関係はなかったらしく、したがい、それに関わる姉メイベルの画策もなったと考えられる(献身はあったかもしれないが)。つまり、このあたりが本作のフィクションの部分と言える。

しかし私が感じた史実・事実とフィクションとの境目のなさは、このようなストーリー展開というよりは、フィクションが、物語に込められたあるメッセージに支えられて、史実・事実以上の存在になっているということなのである。

そして、そのあるメッセージとは、ビアズリーの絵が『サロメ』を「サロメ」たらしめているということ、この時代の芸術家の人生は生き難いということではないかと、私は思っている。


前編でも触れたように、私自身も本屋で岩波文庫のワイルドの『サロメ』を見かけたとき、赤色の地に黒で熱帯植物のような何かが描かれたおどろおどろしい表紙に惹かれて手にとった。

また、本作原田マハ版の『サロメ』も、「最高潮」が表紙とされているのを見かけて、それまであまり思い出すこともなかったワイルドの『サロメ』を思い出し、本書と合わせてもう一度読みたいという気になった。

それだけ、ビアズリーの絵は時を経ても人を動かす力がある。

 人気作家・ワイルドが、「聖人殺害」という禁断のテーマを取り上げた問題作である。それだけでも<サロメ>にはじゅうぶんな話題性があった。しかし、この一作をほんとうに大化けさせたのはオーブリー・ビアズリーの挿画であった。
 ワイルドのほかの著作同様、文字だけの本であれば、読まずにすませようと、人々は手に取ることを敬遠したかもしれない。しかしところどころに鋭く差し込まれている鋭利なナイフのごとき絵の魅力は抗うのが難しいほどである。その淫靡さゆえ、邪悪さゆえ、目を逸らせなくなってしまうのだ。
 誰の心にも潜んでいる罪深きものへの興味、怖いもの見たさ。人間の原初的な感覚に、オーブリーのナイフはまっすぐに切り込んでくる。彼の<サロメ>をひと目でも見てしまったら、もう逃げられなかった。
『サロメ』(文藝春秋 2017年)284〜285ページ

このような抗いがたい魅力を生み出した源泉に、作者は、ワイルドとビアズリーの“ただならぬ関係”を幻想した。そして、ワイルドに裏切られたと思いながらも抗いがたく魅了されているビアズリーの物語(フィクション)が、絵の魅力の裏打ちとなって、読者に迫ってくる。少なくとも私にはそのようなものに思えた。


さて、この物語には三人の芸術家が登場する。天才画家のビアズリー、人気作家のワイルド、売れない舞台女優のメイベル。

天才画家のビアズリーは、芸術家として見えている境地が尋常ならざるものであり、ある種の“異界”なのだ。サロメは美しい姫ではなく、化け物だという境地。それを全身全霊で、その身を削ってでも表現せざるを得ないというタイプの芸術家。

一方、人気作家のワイルドもたしかに天才肌ではあるけれど、聖人を殺害し、その首に口づけをするなど、狂気的な場面が盛り込まれた『サロメ』を上演禁止にした社会への怨嗟が強い。ビアズリーを利用して、世の中に一泡吹かせてやろうという野望は、彼の芸術が社会の物差しから自由ではないことを物語っている。

そして、メイベルは端役をこなしながらなんどもオーデションに落ち続けている、売れない舞台女優。弟の画才ほど演技の才能がないと自覚しながらも、女優であることを諦めきれない。弟がワイルドに近づくことを厭いながらも、自身を女優として飛躍させてくれるのは、ワイルドではないかと感じている。ワイルドの「サロメ」を演じたいという衝動に駆られる。

この三人の物語は、芸術家たちが自らの中にあるものをあるべき形で表現し、その時代の社会に認められていくということの難しさを語っているように思われた。

病弱で貧しく、美術学校にも通うこともできない、自身の才能を見出してくれる人にも恵まれなかったビアズリーが、十八歳のときに、自身の境地を共感と絶賛をもって見出してくれたワイルドに、身も心ものめり込んでいくのは自然なことだった。

ワイルドも、他の作品の売り上げや興行成績は悪くはないものの、秩序と道徳を重んじたビクトリア王朝下での作品としては、時代がタブーとすることを『サロメ』に盛り込みすぎた。

そしてメイベルは、ビアズリーやワイルドに比べれば、芸術家としての才能は平凡なものであったが、何よりも彼女はビアズリーの稀な才能に幼いころから気づき、ワイルドの今でいうプロデューサーような気質を見抜いていたところから、芸術家の才能を見出す目利きであった。

ビアズリーが裕福な家に生まれて美術学校に通い、よい先生に恵まれていたら、ワイルドの活躍が二十世紀もしくは二十一世紀だったら、メイベルの目指したものが編集者のような職業であったら、あんな悲劇的な結末を迎えることはなかったかもしれない。

でも、それだったら、あの人を惹きつけてやまない、挿絵の魅力を裏打ちする物語(フィクション)も、生まれることはなかったかもしれないけれど。





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