感情に振り回されない
感情は、日々の生活に彩りを与えてくれる一方で、時に厄介な存在でもある。
以前の私は、よく言えば感情豊か、悪く言えば感情の揺らぎが大きく、常になにかしらの苦しみが絶えなかった。
特に、小さなことでくよくよとよく落ち込み、1人で過ごすことが好きなくせに、同じくらい孤独が怖くて、人の反応や顔色を見てはいちいちメンタルに影響が出て、常にそのような自分の心に支配されていた。
浮き上がってくる感情が辛くて辛くて堪らなかったが、考えれば考えるほど同じところでぐるぐると回旋し、ずぶずぶと沼に引きずり込まれるようにその感情から出られなくなった。特に、よく分からない悲しみや孤独感、虚無感、絶望、気分の落ち込みがどんどん激しくなって、生きるのが辛くなっていた。
もしかしたら女性の方は共感してくださるかも知れないが、特にPMSの時期などは、なにも起きていないし誰にも傷つけられていないのに、ただただ生きている自分の存在が悲しくて、大切にしてくれる人たちがいることも分かっているのに、ひたすら訳もなく寂しくて寂しくて耐え難いということがあった。
人によっては苛立ちや怒りが抑えられず過度に批判的になってしまったり、妬みや執着心で冷静さを欠いた行動を取ってしまう人もいるだろう。
大きな苦悩の原因は、心の動きに翻弄され、怒りや落ち込み、不安や悲しみといった感情そのものと自分自身を混同してしまうことであると、ヨガ哲学では言っている。
それを知ってから、どこか遠い存在のように感じていたヨガ哲学の経典を、これからの自分の人生のための生きるヒントとして勉強してみようかなという気になった。
ヨガ哲学の経典には、心についての記述が数多く存在する。様々な観点から、心の問題について述べることができるが、今回は感情=自分ではないということに絞った話にしていきたい。
自分=心なのではなく、自分は心を観る存在である。本当の自分と、心の変化の違いを理解し、思考を自分の意志で扱うことのできる存在が私たちの本質であると、このヨガスートラでは伝えている。
太ったり痩せたり、老いていったりと変化する身体が自分そのものでないのと同様に、一時的な感情である心も自分の本当の姿でないという考え方である。
「自分自身が何者かわからない。世界とは何かを知らない。」などといった自分に関する無知が、すべての苦悩の原因であるともヨガ哲学では言われている。
自分が何者か、という問いには様々な角度からの答えがあるであろうが、ここでは心=自分であるという思い込みが当たり前になっていると、心が揺れ動くたびに自分も揺らぎ、感情に翻弄されてしまうから、心と自分を別物として捉えるようにと伝えている。
ヨガのゴールは難しく見栄えのするポーズができるようになることでも、身体を柔らかくすることでも、筋肉をつけることでもない。
ヨガの本当のゴールは忙しく動き回る心を収め、穏やかな心で知るべき知識を知り、一切の苦悩から自由な本当の自分に戻ることなのである。
心は自動的に収まるものではなく、自分の意志と努力で成長させる必要のあるものである。徹底的に自分と向き合い、自分を知ることで、人は自由で幸せになれるのである。
ヨガスートラでは、人間の苦しみを大きく5つに分けることが出来ると言っている。
①無知
自分の本当の姿(変化を観る存在であり、ただ一つ変わらないもの)を知らず、変わりゆく肉体や感情を自分だと思うこと
②自我意識
世界と自分を分けて考え、小さな自我の枠から他人と自分を比較し、競い、抵抗し、苦悩すること
③欲望
満足を知らず、過度な欲望や執着が罪や嘘、暴力的な行いを生むこと
④嫌悪
過去の記憶にとらわれ、そこから派生する主観的で歪んだ考えでありこだわりであり、勘違い
⑤死への恐れ
ありのままの自然の法則、秩序を知らず、未来へ不安を感じたり、失うことへの恐怖を抱くこと
である。
人間である限り、これらの苦しみに翻弄されることは当たり前であるし、否定する必要もないが、その苦しみの中に長く居続けてもあまり良いことはない。
例えば、なにかや誰かに執着しすぎ(③の欲望)だなと気づいたら、その執着のモードの中に沈みこまず、自分は今、執着しているな、と俯瞰し、執着している自分を見守るような姿勢で感情と自分自身を分けて眺めてみると良い。
そして、自分の意志の力で心が作り出した感情に対抗し、苦悩を真実へと変えていき、悪い感情とは逆の発想で自分を制し、優しくベストな場所へと引き戻していけば良いのだ。
せっかく人間に生まれたのだから、感情をゼロにする必要はない。凪にはならなくても、荒波を小波の状態にして自分で乗りこなせば良い。自身でコントロールできるレベルで感情の波を楽しみ、人間らしく彩りある日々を楽しんでいければと思う。