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masa
2020年5月6日 11:53
登美子は、啓輔のシャツをしっかりと伸ばした。しわがないように、見栄えがいいように。 主婦という言葉に憧れていた。 会社にいるよりはずっとましだと思っていた。会社では自分の居場所はなかった。自分は歯車の一つだった。代わりはいくらでもいた。きっと、自分がいなくなっても、次の日には新しい人が来る。 啓輔は将棋に凝っていた。 インターネットでずっと将棋の対局を見ていた。「わかるの?」 と
2020年5月5日 12:53
琢磨は、深雪との関係を清算しようとしていた。 もとから、長く続く関係じゃないんだ。琢磨はホームの端で電車を待っている間、誰にも聞こえないように同じセリフを何度もつぶやいていた。 深雪と会ったのはいつだったか。確か、中学2年の時のクラス替えの時だ。まだ横浜に住んでいた時だ。言葉はほとんど交わさなかった。お互いに引っ込み思案で、恋仲に結びつけるにはあまりにも遠かった。 卒業してから、
2020年5月4日 12:25
かつてそこには、豊かな海があった。コトネは文献でそう知った。 今では、海と呼ばれるものは少なくなった。水は汚染されたし、生物は息絶えた。 人類は地下の底に蓄えられた水を、くみ上げて生き延びた。大地が悪意を浄化した。 わずかな水だけを頼りに人は命をつないだ。小さな暮らしを重ねて、少ない幸せを味わった。人の娯楽は消えて、互いの言葉だけが、楽しみを生み出す手段だった。 家の中には静寂だ
2020年5月3日 13:39
真也子は薔薇を育てていた。ワインのように深みのある赤い薔薇だった。 真也子はよく薔薇に話しかけていた。友人のように、時に恋人のように。 庭には銅像があって、なんでも軍隊の将校の銅像なのだそうだ。「祖父が、海洋を彷徨っているときに助けられたって。その人の銅像を作ったの。変わり者よね」 と真也子が言った。「遭難したの?」 則都は彼女に尋ねた。「ええ。船がエンジントラブルで動かなく
2020年4月25日 09:21
灯台が立っている。力強く、岬の上に。 僕と真也子は灯台を見上げていた。 コンクリートの土手に波が打ち付け、しぶきを上げた。 昔、ここに美しい浜辺があった。海の家がいくつも並び、海水浴を楽しむ人々で溢れていた。幼い頃を思い返すと、蘇るのは浜辺に連なる海の家であり、そこを行き交う人々の笑顔ばかりである。 小さい頃、あの灯台へ行った。小学生の頃だ。 真也子も一緒だったと記憶している。彼
2020年4月24日 09:20
雄介の作った紙飛行機は、校舎の向こうまで飛んだ。クラスの誰もそんな飛距離を想像していなかった。先生も想像していなかった。 結局、紙飛行機は校舎に隣接する家の敷地に落ちた。 後で、担任の先生と雄介が飛行機を回収に行った。 康太は、その様子を教室からじっと見ていた。 『紙飛行機をどうやったら遠くまで飛ばせるのか』 ある日、そんなテーマの授業があった。紙飛行機を作って飛ばす。単純
2020年4月23日 13:38
牛嶋神社の横に、ひょうたん池と呼ばれる場所がある。それは名前の通りひょうたんのような形の池だった。 幼い頃、その池でメダカをよく取った。水面を覗くと、すいすい泳ぐメダカがいた。 小さい頃、その池はとても大きく見えた。幼い頃の記憶は曖昧だが、あのひょうたん池の様子はしっかりと脳裏に刻み込まれている。 ペットボトルに入れて、家に持ち帰った。母は怒ったが、父は興味を持った。父と私は近所の熱帯
2020年4月22日 12:21
目玉焼きは、完熟がいい。私は完熟が好きだ。固い方がいい。固い身をぐっと噛んで、崩れていく黄身の感覚が好き。 でも、彼は半熟が好きだ。 私が目玉焼きを作ると、彼はいつも文句を言う。もっと、柔らかい方が好きだと。 でも、私は完熟にする。 彼の好みとは違うものを作る。それは私のささやかな抵抗。 なんでも、彼に合わせては面白くない。 静かな朝食の時間、彼は目玉焼きを見ていつもと同じ文
2020年4月21日 11:45
僕らは、幼馴染だった。 陽菜、正樹、僕。僕らはいつも一緒にいた。 正樹は地図が好きで、将来は地図を作る人になりたいと言った。陽菜は、おとなしい子だったが、芯が強く、一度こうと決めたらなんでも最後までやりきった。 三人で、よく地図を作って遊んだ。画用紙に架空の町の地図を描き、自分たちだけの町を作る。そこは僕らの町だった。僕らしか入ることのできない特別な町だったのだ。 出来上がった地図
2020年4月20日 09:48
一頭の亀が隅田川の上流から流れてきた。不思議に思ってじっとその亀を見ていた。最初は亀だとは思わなかった。 僕があまりにもじっと見ているので、周りの人間もそれにつられて見ていた。人が流れてきたのではないか。そんな風に思ったのだ。 どんぶらこ、どんぶんらこ。 そんな言い方は古いかもしれない。しかし、その言い方が最も適切であるように思えた。 隅田川を一頭の亀が悠々と流されていった。泳いでい
2020年4月19日 09:05
チク、タク、チク、タク、 チク、タク、チク、タク、 メトロノームは冷静に時を刻み続けた。この時がいつか終わるのではないか。そんな気がしていた。 彼女はメトロノームの音の振幅数を一分間60に設定した。 チク、タク、チク、タク、「なんだか、心臓みたい。とくんとくんって」 と彼女は言った。 彼女がピアノを習うと言いはじめたのは、大学2年生の時だった。幼稚園の先生になるから、という
2020年4月18日 08:43
美咲は、鶴を折っていた。 とても小さな手で、驚くほど綺麗な鶴を折った。 その鶴はいまにも、飛び出しそうに思えた。「鶴って、渡り鳥なの、知ってる?」 と彼女は言った。 渡り鳥。 そうだ。鶴は日本の鳥ではない。 ある季節だけ日本にやってきて、また次の季節には次の国へと旅立つのだ。 「同じ場所に戻ってくるって、どういう気持ちなんだろう。故郷みたいな感じかな」 彼女は笑った。しか