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生活の中の小説

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日々、心を通り過ぎていく一瞬の風景を切り取って、小説にしていきます。小さな物語を日々楽しんでいっていただければと思います。
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#毎日更新

小説 アイロン

小説 アイロン

 登美子は、啓輔のシャツをしっかりと伸ばした。しわがないように、見栄えがいいように。

 主婦という言葉に憧れていた。
 会社にいるよりはずっとましだと思っていた。会社では自分の居場所はなかった。自分は歯車の一つだった。代わりはいくらでもいた。きっと、自分がいなくなっても、次の日には新しい人が来る。

 啓輔は将棋に凝っていた。
 インターネットでずっと将棋の対局を見ていた。
「わかるの?」
 と

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小説 鏡の中

小説 鏡の中

 琢磨は、深雪との関係を清算しようとしていた。
 もとから、長く続く関係じゃないんだ。琢磨はホームの端で電車を待っている間、誰にも聞こえないように同じセリフを何度もつぶやいていた。

  
 深雪と会ったのはいつだったか。確か、中学2年の時のクラス替えの時だ。まだ横浜に住んでいた時だ。言葉はほとんど交わさなかった。お互いに引っ込み思案で、恋仲に結びつけるにはあまりにも遠かった。

 卒業してから、

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小説 終わる世界

小説 終わる世界

 かつてそこには、豊かな海があった。コトネは文献でそう知った。 
今では、海と呼ばれるものは少なくなった。水は汚染されたし、生物は息絶えた。

 人類は地下の底に蓄えられた水を、くみ上げて生き延びた。大地が悪意を浄化した。

 わずかな水だけを頼りに人は命をつないだ。小さな暮らしを重ねて、少ない幸せを味わった。
人の娯楽は消えて、互いの言葉だけが、楽しみを生み出す手段だった。

 家の中には静寂だ

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小説 雨の薔薇園

小説 雨の薔薇園

 真也子は薔薇を育てていた。ワインのように深みのある赤い薔薇だった。
 真也子はよく薔薇に話しかけていた。友人のように、時に恋人のように。
  
 庭には銅像があって、なんでも軍隊の将校の銅像なのだそうだ。
「祖父が、海洋を彷徨っているときに助けられたって。その人の銅像を作ったの。変わり者よね」
 と真也子が言った。
「遭難したの?」
 則都は彼女に尋ねた。
「ええ。船がエンジントラブルで動かなく

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小説 灯台

小説 灯台

  灯台が立っている。力強く、岬の上に。
 僕と真也子は灯台を見上げていた。
 コンクリートの土手に波が打ち付け、しぶきを上げた。

 昔、ここに美しい浜辺があった。海の家がいくつも並び、海水浴を楽しむ人々で溢れていた。幼い頃を思い返すと、蘇るのは浜辺に連なる海の家であり、そこを行き交う人々の笑顔ばかりである。

 小さい頃、あの灯台へ行った。小学生の頃だ。
 真也子も一緒だったと記憶している。彼

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小説 紙飛行機

小説 紙飛行機

 雄介の作った紙飛行機は、校舎の向こうまで飛んだ。クラスの誰もそんな飛距離を想像していなかった。先生も想像していなかった。

 結局、紙飛行機は校舎に隣接する家の敷地に落ちた。 
 後で、担任の先生と雄介が飛行機を回収に行った。
 康太は、その様子を教室からじっと見ていた。
 

 『紙飛行機をどうやったら遠くまで飛ばせるのか』

 ある日、そんなテーマの授業があった。紙飛行機を作って飛ばす。単純

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小説 メダカ

小説 メダカ

 牛嶋神社の横に、ひょうたん池と呼ばれる場所がある。それは名前の通りひょうたんのような形の池だった。
 
幼い頃、その池でメダカをよく取った。水面を覗くと、すいすい泳ぐメダカがいた。
 小さい頃、その池はとても大きく見えた。幼い頃の記憶は曖昧だが、あのひょうたん池の様子はしっかりと脳裏に刻み込まれている。

 ペットボトルに入れて、家に持ち帰った。母は怒ったが、父は興味を持った。父と私は近所の熱帯

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小説 目玉焼き

小説 目玉焼き

 目玉焼きは、完熟がいい。私は完熟が好きだ。
固い方がいい。固い身をぐっと噛んで、崩れていく黄身の感覚が好き。

 でも、彼は半熟が好きだ。
 私が目玉焼きを作ると、彼はいつも文句を言う。もっと、柔らかい方が好きだと。

 でも、私は完熟にする。
 彼の好みとは違うものを作る。それは私のささやかな抵抗。
 なんでも、彼に合わせては面白くない。

 静かな朝食の時間、彼は目玉焼きを見ていつもと同じ文

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小説 三角点

小説 三角点

 僕らは、幼馴染だった。
 陽菜、正樹、僕。僕らはいつも一緒にいた。

 正樹は地図が好きで、将来は地図を作る人になりたいと言った。陽菜は、おとなしい子だったが、芯が強く、一度こうと決めたらなんでも最後までやりきった。

 三人で、よく地図を作って遊んだ。画用紙に架空の町の地図を描き、自分たちだけの町を作る。そこは僕らの町だった。僕らしか入ることのできない特別な町だったのだ。

 出来上がった地図

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小説 亀

小説 亀

 一頭の亀が隅田川の上流から流れてきた。不思議に思ってじっとその亀を見ていた。最初は亀だとは思わなかった。
 僕があまりにもじっと見ているので、周りの人間もそれにつられて見ていた。人が流れてきたのではないか。そんな風に思ったのだ。

 どんぶらこ、どんぶんらこ。
 そんな言い方は古いかもしれない。しかし、その言い方が最も適切であるように思えた。

 隅田川を一頭の亀が悠々と流されていった。泳いでい

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小説 メトロノーム

小説 メトロノーム

 チク、タク、チク、タク、
 チク、タク、チク、タク、

 メトロノームは冷静に時を刻み続けた。この時がいつか終わるのではないか。そんな気がしていた。

 彼女はメトロノームの音の振幅数を一分間60に設定した。
 チク、タク、チク、タク、
「なんだか、心臓みたい。とくんとくんって」 
 と彼女は言った。

 彼女がピアノを習うと言いはじめたのは、大学2年生の時だった。幼稚園の先生になるから、という

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小説 鶴

小説 鶴

 美咲は、鶴を折っていた。
 とても小さな手で、驚くほど綺麗な鶴を折った。
 その鶴はいまにも、飛び出しそうに思えた。

「鶴って、渡り鳥なの、知ってる?」
 と彼女は言った。

 渡り鳥。
 そうだ。鶴は日本の鳥ではない。
 ある季節だけ日本にやってきて、また次の季節には次の国へと旅立つのだ。

 「同じ場所に戻ってくるって、どういう気持ちなんだろう。故郷みたいな感じかな」
 彼女は笑った。しか

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