良い記憶

「入院中にも関わらず」良い記憶がある人は結構いるのではないだろうか?

入院というと、ずっと寝ていて、ずっと苦しんでいる印象がある人もいるかもしれない。

しかし、持続的にずっとずーっと1秒たりとも苦しみから開放されずに、ずっとずっともがき苦しんでいる、というわけでもない状況もある。

特に、制度が変わる以前の時代は、わりと回復してきても、リハビリ目的や経過観察目的で入院が続いていることも結構あった。

すると、普通に楽しい記憶ばかりの時期というのもある。

私の場合、一命を取り止めて、回復まっしぐらでただただリハビリに励んでいる時期は、良い思い出しかない気がする。

普通に、毎日が楽しかったし、充実していた。

今、この入院や一連の闘病を本にしようとまとめており、このnoteに書いていない良い記憶や、下書きに眠らせて公開していない良い思い出を書いている。

書きながら、口角は上がり、白い上段の歯が横一列に見え、目尻は穏やかに下がって少し顔をクシャっと、顔全体でとっても楽しそうな笑顔になっている。

書きながら、「楽しい」と思っている自分の心の感情を自覚する。

死闘を勝ち抜き、一番肉体的に辛い苦しみがあった入院なのにね。なのに、「あの長期入院」だけは、やっぱり全体を見ると「良い思い出」だ。部分抽出しても、「あの身体状況で幸福感で満たしてくれた人々は神がかっている。」なのだ。

だから、「入院中だったにも関わらず、良い思い出もある」日々ではなく、「良い思い出なんだけど、辛いこともあったよね。あの神対応と状況、時代、周囲の人々(亡くなってる人)を再現はできない以上、二度とあの身体状況には耐えられないから、本当にヤバくなったら、DNARを表明しないと」なんだよね。(事前に正式にカルテに入れておけない理由は、「生きたい」から。可逆的で治療の余地があることまで、未治療がゆに寿命を縮めたくはない。この辺の認識が医師によっても千差万別な以上、不用意かつ意図しない縮命に繋がる書類をカルテに取り込むリスクは負えない。)

たしかに、人工呼吸器装着は避けたい。でも、それは過去が悪い思い出だから避けたいのではない。「あの時の良い思い出と同じ状況は再現できないから、DNARを余儀なくされる」という理由付け。

だから、逆に表現すると、環境さえ最高に整備できれば、どんな肉体的苦痛であったとしても、精神的には幸せであれるのが、人間という生物なんだと思う。

苦しいから死を選ぶのではなく、環境整備が難しくて幸福感を維持できないから、死を受け入れる以外に尊厳が守られないと錯覚するのが現代社会、なのかもしれない。

もちろん、現代という時代のせいではなく、私の能力不足なのかもしれないけどね。(自身の心情、家族や友人の生存・年齢、財力、実に様々な環境要因が影響している。)

逆に、最期が近くなったら、自宅で大勢の家族に囲まれて、皆に幸福感を満たされながら息を引き取らなくなっていたから、若年者の元気な時の幸福感にすら変化が生まれて、必然的に最期が近い時の尊厳や幸福感にも変化が生まれているのかもしれない。

不思議だよね……

レファレンスは同じ「瞬間」なんだけど、見る方向によって、意味がガラッと大きく大きく変わる。

あなたは、なにを感じて、なにを考えますか?

今を大切に生きよう!

「もしもの時」というやつは、全ての人に必ず訪れる「この時」なんだよね。


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