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家康の御殿地に教会を建てたフランス人(前編)

今を遡ること約140年。

1884年(明治17年)9月18日、北フランスのブーローニュ=シュル=メール(Boulogne-sur-Mer)に、1人の男の子が生まれた。

ブローニュ=シュル=メールとは海辺のブローニュという意味。
その名の通りフランス本土の北東端、ベルギーとの国境付近、英仏海峡に面する町が、ブーローニュ=シュル=メール(Boulogne-sur-Mer ノール=パ=ド=カレー地域圏、パ=ド=カレー県)である。

名前は、ルシアン・アドルフ ドラエ(Delahaye,Lucien Adolph 1884-1957)。この男の子は誕生から25年後、日本でドラエ神父と呼ばれ、多くの日本人から慕われ愛されるようになる。

そして彼は、多くの日本人の命を救ってくれた人物にもなる。

ルシアン・アドルフは1891年から1897年まで、地元ブローニュの小学校で学び、1897年中等学校に進学。
1904年から1906年まで、アラスのセントトマスアクィナスセミナーで哲学の授業を受ける。

だが彼の家庭の財政状況は輝かしいと言える状態ではなく、ルシアンは城で庭園設計師として働き、学費にしていた。

1906年、ルシアンはセントウェストのセミナリーに入学することが叶い、念願だった神学を探究出来るようになる。

1909年(明治42年)9月26日。
1週間前に25歳になったばかりのルシアンは、晴れて司祭に任命される。
越境の地での伝道に希望を抱く、若き青年司祭の誕生であった。

そしてその希望に人生を捧げるべく、パリ外国宣教会に入ったルシアンは、同年12月末に【ドラエ神父】として日本の地を踏んだのである。

日本でのドラエ神父は、まず八王子、前橋などに礼拝堂を作り伝道に従事する。

その後、1914年(大正3年)6月頃、病床にあった静岡教会のクレマン神父を助けるために静岡へ。
9月、クレマン神父が60歳で帰天された後、その後任として10月1日、ドラエ神父が静岡で小教区司祭に就任する。

その時、ドラエ神父はまだ30歳。

当時、まだ130人ほどしかキリスト教徒がいなかった静岡は、いわば未開の地。
ドラエ神父は静岡市はもちろんのこと、浜松、清水、焼津、藤枝の各地を熱心に巡歴してカトリック思想の普及につとめ、1917年(大正6年 )には日本カトリック谷津巡回教会を建てた。

(谷津教会は1997年に国指定の登録有形文化財となったが、2012年放火によって全焼。小さな木造平屋建てで小さな庭の中にある可愛らしい教会だった。https://www.google.co.jp/search?sca_esv=577044017&sxsrf=AM9HkKlDQLymNHlOyQYjDbDpB9ohQQhLYw:1698373316147&q=%E8%B0%B7%E6%B4%A5%E6%95%99%E4%BC%9A&tbm=isch&chips=q:%E8%B0%B7%E6%B4%A5+%E6%95%99%E4%BC%9A,online_chips:%E6%95%99%E4%BC%9A%E5%A0%82:tJILJTB4p3w%3D&usg=AI4_-kRVkWzYZ-eQXKV3ZBjvlk6uhZXmVg&sa=X&ved=2ahUKEwj0vdHRlZWCAxVUR_EDHW1IBqwQgIoDKAJ6BAgzEBo&biw=1156&bih=1399&dpr=2 )


1931年(昭和6年)、ドラエ神父はカトリック清水教会聖堂を建設したいと願っていた土地〜当時、一面の茶畑であったがもともとは徳川家康の御浜御殿があった場所〜に、【幼きイエスの聖テレジア】のメダイを埋め、聖堂建設の願いを込める。

聖テレジアは1927年、教皇ピオ11世によって宣教の守護聖人とされている。

つまりドラエ神父は、自身の御守りであった聖テレジアのメダイを土に埋めて、その土地に聖堂が建設されることを願ったのだ。

そこには、ドラエ神父の聖堂建設への願いと意志がどれほどまでに強かったかが、顕著に表れているのではなかろうか。


【幼きイエスの聖テレジアのメダイ(宣教の守護聖人)】

そして同年、母国フランスへ帰国。

フランス帰国前に、ドラエ神父は日本で浮世絵、刀剣などの古美術品や骨董品を買い求め、それらをフランスで売り、清水教会建築の資金作りに奔走した。
また故郷ブローニュとその近郊の信者たちを回り、資金の協力支援をもお願いする。

こうして休養のためであったはずの母国への帰国は、カトリック清水教会建設のために費やされた。

1932年(昭和7年)秋、ドラエ神父はフランスから清水へ戻る。

神父のフランスからの荷物には、大きな聖マリア、聖ヨゼフの対の御像があった。

それらが現在も聖堂の左右に位置する脇祭壇の上に安置されている、聖マリア、聖ヨゼフの御像の2体である。


ドラエ神父がフランスより持ち帰った聖マリア像
対の聖ヨゼフ像

1933年(昭和8年)ドラエ神父は清水の徳川の御殿地を買う。
この御殿地は下清水御殿地と呼ばれ、ドラエ神父が希望した敷地は、567番地の1から3、およそ800坪の広さの土地であった。

この土地は1607年(慶長12)、徳川頼宣が父家康公のために「御浜御殿・清水御殿・下清水御殿・烈祖殿」と呼ばれた御殿を建てた土地である。

この御殿には「殿上の間、松の間、柳の間等」の見事な部屋があったという。
また建物の彫刻が見事であり、また御殿の東側には蓮池があり北側には毘沙門様を祀る毘沙門池があった。

さて、ここで私はハタ、、、と考え込んだ。

それは、ある疑問が浮かんだから、、。
答えはイエスでもノーでもなく、微妙に真ん中あたりを彷徨っている感じ。

その疑問とは、、、と書き出す前に、まず徳川幕府とキリスト教についてざっと説明しておこう。

徳川家康は、初期のころ、ポルトガルやスペインとの貿易を推進するため、キリスト教の布教活動を許可・黙認していた。

家康はそれまでの秀吉が行ってきた強圧的な外交政策をあらため、朱印船貿易を振興させたのだ。

朱印船貿易によって、銀・銅などの鉱産物や工芸品などが輸出され、中国からは生糸や絹織物、東南アジア産からは象牙・鮫皮 や砂糖などが輸入された。日本には、これまでのポルトガルやスペインの船だけではなく、オラ ンダやイギリスの船も来航するようになった。

家康は、貿易の利益のため、キリスト教宣教師の来日と布教を黙認したのだった。

が、結果、そのためにキリスト教は日本各地に広まることになる。
なぜなら以前から活動していたイエズス会をはじめ、フランシスコ会、ドミニコ会、アウグスティノ会の宣教師たちも続々と来日するようになったからである。

家康は外交上の必要からこれらの活動を黙認していた。
が、黙認しつつ、秀吉の禁教令(キリスト教禁止令)を取り消すことはしなかった。

けれどもある事件をきっかけに事態は急変する。

1610年(慶長14年)12月、有馬晴信(キリシタン大名として有名)が長崎港外でポルトガル船を撃沈したこと(マードレ・デ・デウス号事件)が、その事件である。

が、この事件の背景に隠された真実が家康の知るところとなり、事態を重く見た家康は、ついに1612年(慶長16年)、駿府から直轄領に教会の破壊と布教の禁止を命じた。

この事件の背景には有馬晴信と岡本大八という2人のキリシタンがおり、有馬が大名、岡本は家康の側近、本多正純の家臣であったことから、家康は家臣などのキリシタン調査も始めた。

家康はこの「禁教令」を1613年(慶長17年)には全国に発令、「宣教師の国外追放令」も発布。

これにより長崎や京都の教会は破壊され、宣教師はマカオやマニラに追放された。(が、南蛮貿易のため、信徒の処刑などまではまだ行われていなかった。)

そしてこれが幕末、さらに明治政府(五榜の掲示)までに引き継がれる長く厳しい迫害の幕開けとなったのである。

1615年(慶長19年)、日本各地にいた外国人宣教師、有力なキリシタンたち、日本修道女たちは長崎へ送られ、400人あまりが数隻の船でマニラ・マカオに追放される。

この中の何人かの宣教師は、日本に潜伏、または再潜入し命を懸けて宣教活動を続けたが、そのほとんどは殉教。

【キリスト教を禁止して迫害までした徳川家の御殿地に、カトリック清水教会の聖堂を建設する、、。】

ここはドラエ神父が意図的に選んだ土地だったのか、単に偶然だったのか、、、それが私に浮かんだ疑問であり、謎だった。

もちろんドラエ神父亡き後、その答えはわからない。

だが、この土地が御殿地跡であったということは、ドラエ神父もご存知だったはず。

何故かというと、この近辺には御殿の名残りである石垣が随所に見られるからである。

また、キリシタン迫害時代には、この近くでも6人の殉教者があったという。
ドラエ神父のお心には、その6人への鎮魂の願いもあったのだろうか、、。

今はもうドラエ神父に問いかけることは出来ない、、。


ルシアン・アドルフ ドラエ神父

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