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『湊川神社』-信仰心と国家思想が交差した近代神社

偽史、フェイクロア、創られた伝統といった背景を持つ場所や存在を、現実と妄想が交差する「特異点」と捉え撮影する記事。今回は 兵庫県神戸市中央区にある『湊川神社』を取り上げる。


『湊川神社』とは

明治に創建された、楠木正成を祭神とする神社

神社表門入口。

『湊川神社』とは、鎌倉末期~南北朝時代に活躍した武将である楠木正成を祭神とする神社。兵庫県内有数の参拝客を誇り、特に初詣は多くの人で賑わう神社だが、創建は1872年と歴史としては新しい。

入ってすぐのところに功績を記す大看板がある。
奥に本殿があり、赤い鳥居の先には楠本稲荷神社がある。

楠木正成の戦没地が湊川だった

そもそも、湊川の地と楠木正成にどういった関係性があるのか。それは1336年の「湊川の戦い」が起因している。
武家側の足利尊氏率いる足利軍と、朝廷側の新田義貞・楠木正成軍との間で行われたこの合戦。結果として、新田・楠木軍は敗れ、楠木正成は自害したのだが、その場所が湊川だという。その後、殉節地と墓は地元の人々によって大切に守られ親しまれてきた。そして湊川神社は、その両者の対角線上に創建された。

殉節地入口。
奥にある塚が殉節地とされている。また周辺一帯は禁足地となっている。
楠木正成の墓碑。

とはいえ、あくまで敗北した朝廷側の一人物が、なぜ祭神として祀られ、他の神社より新しい歴史ながらも、県内屈指の人気神社となったのか。何より、神社(=神道)にとって「穢れ」であるはずの殉節地と墓がなぜ境内にあるのか。そこには、楠木正成を愛した国民と明治政府の思惑が交差したことにある。

忠臣として高まる楠木人気

江戸時代に再評価され、墓碑が建立される

これまでずっと議論されてきた、足利が擁立する光明天皇側=北朝と、後醍醐天皇側=南朝のどちらを歴史の正統とするかという「南北朝正閏論」。その論争において、江戸時代に隆盛を誇った儒学の影響から「南朝正統論」が興り始める。そして楠木正成は、天皇のために尽くした忠臣の筆頭として見直されることとなる。

再評価以降、各地の藩で楠木正成の祭祀が実施されたり、後の明治維新に繋がる尊王思想が広がるなど大きな影響を与えた(春山明哲「靖国神社とはなにか -資料研究の視座からの序論-」『国立国会図書館月刊誌レファレンス』666号、2006年7月)。

そのようなムーブメントの中、湊川神社創建の直接的な起源ともいえる出来事が、「水戸黄門」で知られる徳川光圀による墓碑の建立である。南朝を正統とする『大日本史』を編纂するなど南朝正統論を支持し、楠木正成を崇敬していた徳川光圀は、1690年に幕府の官職を引退後早速建碑に取り掛かり、1692年に墓碑が建立される。その後も墓域は整備・拡張され、祭祀が行われるなど崇拝者の間で聖地となっていった。

墓の入り口。神社表門前の右手にある。
墓碑には徳川光圀筆で「嗚呼忠臣楠子之墓」と書かれている。
付近には徳川光圀の像も建てられている。

そして幕末に入ると坂本龍馬、吉田松陰、伊藤博文などの維新志士が、楠木正成をはじめとする南朝の忠臣に影響を受け理想としたという。(一坂太郎「楠木正成公と吉田松陰~正成になりたかった松陰~」湊川神社、2015年)。

伊藤博文が奉納した石燈籠が殉節地内にある。
同場所には大隈重信が奉納した石燈籠もある。

広がる神社創建の声

高まった楠木正成の人気から、やがて官民問わず神社創建の声が出始める。1864年、薩摩藩が国家として神社創建を建白したことを皮切りに、1867年、尾張藩主・徳川慶勝が建白。そして、当時兵庫の裁判所に配属されていた伊藤博文らは、兵庫裁判所総督だった東久世通禧経由で朝廷に創建を建白。1868年、明治天皇の命令の元、神社創建が開始される。

「ナショナリズム」と「穢れ」が隣接する近代神社の嚆矢

「天皇に忠義を尽くした英雄」として祀ることで形成する皇国史観

湊川神社は一般的な神社と違う点がある。それは楠木正成を「顕彰」する神社であること。

明治維新後、「南朝正統論」が更に加速し、「大楠公」とも呼ばれるようになった楠木正成。そんな英雄・楠木正成を「人神」として祀ることは、これからの国家形成に向けて大きな役割を担った。なぜなら、天皇に忠義を尽くし戦没した生涯は、明治政府がこれから主導する皇国史観において、鑑のような存在になりえる。また、高まった「南朝正統論」によって楠木正成は、人々にも受容されやすい。
結果として戦前まで楠木正成は、国民の手本としての地位を確立することとなった。ある意味では、湊川神社が持つ歴史とその影響は「創られた伝統」ともいえるだろう。

「創られた伝統」とは

古くからの仕来りや慣習・信仰などによって培われ受け継がれてきたものとは違い、特定の歴史の、ある主体によって意識的に発明された伝統を「創られた伝統」という。

イギリスの歴史家・E.ホブズボウムとT.レンジャーの著書『創られた伝統』で提唱された概念であり、「ある時期に考案された行事がいかにも古い伝統に基づくものであると見なされ、それらが儀礼化され、制度化されること」と定義している。

「創られた伝統」は特に、国家とナショナリズムの近代的発展において明らかである。また、国民のアイデンティティ形成や制度の正当化を促進するのに顕著な文化的実践である。

国主導で英雄的存在が「人神」として祀られた神社は過去にもある。しかし湊川神社はこの点において、近代ナショナリズム的側面をもった「人神」神社の先駆けといえる(日本初の別格官幣社でもある)。

戦後の神社建築様式である鉄筋コンクリート造による本殿。奥には主神の楠木正成、正成の夫人、子息の正行、正成弟の正季などが祀られている。

「穢れ」で挟む本殿

湊川神社の最も奇妙な点は、殉節地と墓の対角線上に本殿が建っていることである。本来神道では、死を穢れとするため神社の境内には墓などの死に纏わるものは配置されない。しかし湊川神社においては、殉節地と墓が先で神社が後という経緯のため、このような配置となっている。

殉節地の門をくぐると広がるエリア。奥には先に掲載した塚がある。
殉節地内にある石碑。自害の経緯や大正天皇の皇太子が参拝した話などが彫られている。

政府主導による創建が決定される以前、各藩が名乗りを挙げていた当初は京都に建てるなどの計画があったようだが、他の公家や藩主から由緒地にすべきとの進言があり却下されたという。
このあたりについて宮司に話しを聞いたところ、何より元々は、当地が地元の人々によって大切にされてきたことが大きく影響したとのこと。

終わりに

由緒・歴史を振り返ることで、自身の信仰心を再考できる場所

戦後、象徴天皇制に代表されるような改革以降、これまでの楠木正成像が研究によって見直され、忠臣以外の側面が多く見えてきている。一方で、神戸の人々にとっては、今でも「楠公さん」と親しまれているのも事実だ。

地元で愛されてきたという歴史に、近代日本が創りあげた由緒が付与され確立された伝統。湊川神社は、自身の信仰心を形成した歴史観、宗教観を再考できる場所なのかもしれない。そのうえで楠木正成を崇敬することは、誰に導かれたわけでもない自由な選択だ。

本殿付近にある署名を求める案内。本当に実現した場合、どのように描かれるのかが楽しみだ。

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