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【こども家庭庁】なぜ「子供」でも「子ども」でもなく「こども」なのか 日本語の退化について

3日に発足した「こども家庭庁」。

なぜ「子供」でも「子ども」でもなく、「こども」と、バカみたいなひらがな表記なのか。

これについて、すでに誰かが書いているかもしれないが、私のカンで「真相」を書く。


そもそもなぜ「子供」が「子ども」になったのか


もちろん「子供家庭庁」とすべきである。

しかし、「子供」が気に食わない勢力が日本の中にある。

これは以前も書いたけど、「子供」を「子ども」と朝日新聞などが表記し始めたのは、1989年の「子どもの権利条約」(ユニセフ)からだと思う。

このとき、「子供」の「供」は、「お供する」など、従属的・奴隷的でマイナスな意味があるから、「供」は使わず、「子ども」と表記しよう、と主張する、私に言わせれば頭が変な人たちがいた。

当時はまだ冷戦下。いわゆる従軍慰安婦問題などを朝日が騒いでいたころだ。朝日の部数は800万部以上あり、日教組の加盟率が5割あった(今はそれぞれ当時の半分以下)。過激な「人権活動家」はたくさんいて、社会に影響力を持っていた。

「子供」を「子ども」と表記すれば、子供の人権尊重になるなど、バカな話であることは、子供でもわかる。

まあ「障害」を「障がい」と書く類の偽善、言葉狩りである。その嚆矢とも言える。


「子供」という言葉があったから、それまで子供は奴隷のように扱われていた、などという話は聞いたことがない。

しかし、日本人は人権というものを知らない未開人だから、改めさせねばならない、という考えの人は、当時もいたし、今もいる。そういう人が、「国連」の看板を使って「思想注入」しようとするのも、当時も今も変わらない。

「お前ら日本人は人権というものがわかっていない」ことを思い知らせるために言葉を変えさせる。つまり「見せしめ」だ。「子ども」という表記の登場は、そういうことではないかと思う。


しかし、「子ども」のように、本来は漢字熟語である単語を、漢字とひらがなで「まぜ書き」するのは、新聞社などでも原則的に避けるものだ。それは日本語の美意識と言っていい。

新聞での例外は、「ら致(拉致)」など、漢字が難しくて読めない場合だけだが、ふりがなが振れるようになって、今は「拉致」も使われていると思う。

いずれにせよ、「供」が難しくて「子供」が読めないという人はいない。字数のうえでも、1文字でも少ない方がいいというのが活字ジャーナリズムの常識だった。「子供」という定着した表記から「子ども」への変更は、いろんな意味で強引であった。

(不自然であるうえに、「子ども」という表記は、「女ども」のように、むしろ野蛮な印象すら私は受ける)


だが、上記の、頭が変な理屈によって、「子供」を「子ども」と表記するのが正義だという世論が起こったのだ。

別に国民みんながそう思ったわけではない。しかし、声の大きい人たちの、その変な正義を、政府が取り入れてしまった。

上記権利条約を、政府も正式に「子どもの権利条約」と表記した。

(この1989年の「子どもの権利条約」の3年後、1992年に、宮沢喜一首相が慰安婦問題で初めて韓国に謝罪する。つまりそういう時代の話だ)

以後、日本政府は、「子ども」表記を同様の条約や法令で踏襲している。

しかし、日本語の美意識から、また、「偽善的だ」「言葉狩りだ」といった反発から、「子供」→「子ども」の表記変更に抵抗する人はいた。


「子ども」表記の思想傾向


現在、「子供」派と、「子ども」派と、日本は大きく2派に分かれ、その表記で人の思想傾向までわかることになっている。

新聞の思想傾向を知るには、「子供」「子ども」のどちらの表記を使っているか調べればよい。

以前は、朝日新聞は「子ども」と表記し、いくつかのブロック紙や地方紙が追随した。毎日新聞含む他の新聞は「子供」が一般的だったと思う。左傾化が目立つ毎日新聞も、「子供」と表記している限り、まだ朝日より信用できると思っていた。

が、いつの間にか毎日新聞も良心を捨て、今や「子ども」と表記しているようだ。

今回、ざっと「こども家庭庁発足」の各紙記事をながめると、記事本文で「子供」と表記しているのは産経新聞だけだった。頭がまともなのは産経新聞だけか。


PTAの会報などでも、「子供」ではなく、「子ども」と表記するよう指導される、という話を聞いたことがある。

もうその思想性は忘れられているかもしれないが、つい「従軍」慰安婦、と言ってしまうようなものか。

noteも「子どもに教えられたこと」などのハッシュタグを使っているから、朝日新聞寄りである。

いや、「子供」という当たり前の、日本語として正しく、正統的な表記を使うと、保守や右翼のように、あるいは、人権無視のように思われるのがおかしいのだが、それがわからなくなっている。

それがわからなくなるのが怖い。いつの間にか、普通の言語の使用が、思想検閲機能を持ってしまっている。それを許してしてはならない。文化の問題であると同時に、それこそが思想、人権の問題なのだ。

だから私は死んでも「子供」と表記する。そういうことに無神経で、「子ども」と表記して平気な人とは友達になれない。


「子供」→「子ども」→「こども」の退化


「こども家庭庁」の問題に戻ろう。

「こども家庭庁」の「家庭」が入ったのは、自民党保守派の介入だった、という話があった。

そこで同時に、「子ども」という表記もどうか、という配慮が働いたのではないか。

しかし、「子供」としてしまうと、朝日新聞とかに何を書かれるかわからないし、これまでの政府の表記との整合性の問題も生じる。

ということで、「こども」になった。

「子供」派からも、「子ども」派からも、文句を言われない。

それで丸く収まる。

ということで、「こども家庭庁」というバカみたいな名前になった。

(漢字を学ぶ前の、小さな子供にも読めるように「こども」にした、という言い訳も、「家庭」を挿入したせいで、使えなくなった。さすがに「こどもかてい庁」とはできない)

(実際には、新聞各社が集まって相談する用語懇談会と政府が事前調整した可能性が高い。そこで「こども表記についてはマスコミでイジらない」と申し合わされたかもしれない)


このように、いったん「供」という漢字のイデオロギー性を認めてしまうと、漢字を混ぜると「思想傾向」を(不本意に)読まれてしまうから、ひらがなが無難だということになる。

「こども家庭庁」というバカな命名は、そのことを国民に教えている。

だから、今後は「子供」も「子ども」も廃れて、みんな「こども」と書き始める気がする。たぶん、バランス上、「大人」も「おとな」になる。

かくして、国民みんながバカになる。


今に「障害」も「しょうがい」になる


今のところ、「障害」については、政府も法律名などで「障害」のままである。

しかし、「害」にイデオロギーを感知し、「障がい」と表記する人やメディアが増えると、「子供→子ども→こども」と同じ経過をたどり、いずれ政府は「しょうがい」とひらがな書きするようになるだろう。「害」が悪いなら、「障」も悪い、という理屈もつく。

もう「障害」だか「生涯」だか「渉外」だかわからなくなる。(冗談ではなく、そうなりそうな気がする)

結局、頭のおかしい一部の活動家と新聞の主張を、そのときは大したことなかろうと政府が取り入れてしまうと、上記の「思想検閲」問題とは別に、今度は「政府がそう言っているから」と逆に民間の根拠になるから、政府も引っ込みがつかなくなり、辻褄合わせでどんどんバカになる、というバカ循環が、ここでも生じる。

相手が左翼だろうと右翼だろうと起こりうる。変な言い分にいったん譲歩すると、どんどんズルズルと社会が変になる、という法則。

同じようなことが多発すると(「子供」の「供」にケチつけるような輩は何にでも難癖つける)、もう面倒臭いから、漢字とのまぜ書き表記はやめて、日本語はひらがなとカタカナだけにしよう、と、将来の日本では決定されるかもしれない。

そのころには、かつて世界最高を誇った日本人のIQも、世界最低になっているだろう。


ともあれ、こういう大人の醜く無益な忖度や争いとは関係なく、子供は大事にしましょう。



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子どもに教えられたこと

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