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「フランス・パリで教授を泣かす」

 本来はパリ国際学会で、重度の肝臓病になり大騒ぎをしたことを書きたいのだが、段々と若い時、パリだ四大学、ソルボンヌ大学へ留学したことを思い出し話が脱線している。
 
 まず、それをお許し願いたい。
 
 ゼミがあったときのことである。
 
 女性の担当教授を中心に細部までフランス語の作りの指導を受けていた。
 
 例えば、フランス語には「男性」と「女性」があるが、その分類には論理的な規則性があるとかという講義であった。

 全員で15名ぐらいの生徒がいたと思う。もちろん、日本で言うと国語表現法とか国文法の時間であり、フランス人もいた。しかし、科目がフランス語のせいか、スペイン、イタリア、北欧、デンマークからの人もいた。そうそう、オーストラリアの法学部の教授やアメリカ人のエアーコンダクターの女性がいた。
 
 壁に大きな世界地図があった。
 
 今でもその地図のことは覚えている。生き生きと。
 
 なぜなら、日本が載っていないのだ。韓国の当たりで世界地図は切れてしまっている。しかし、別枠で、オーストラリア、ニュージーランドは載っていた。
 
 日本人、アジア人はわたし一人であり、少しむっとした。
 このむっとした気分が、火山が噴火するがごとくになる時が来るのである。
 
 担当教授が、話を脱線し、パリ市内にはいかにアフリカ人やアラブ人の不法移民が多いか、彼らのせいで治安が悪くなっていることを嘆き始めた。
 
 しかし、北アフリカから中央アフリカ、ほとんどフランスが植民して、彼らを労働力としてコキ使ったではないか?
 
 わたしは、思わず手を挙げ発言した。
 「フランスは、アフリカを不当に植民しながら、独立国となった彼らに何もペイバックしていないのは、おかしいのではありませんか?」という内容であった。
 担当教授は、彼らには学校と病院を作ることでペイバックしていると言い出し始めた。
 わたしは、病院は当たり前でペイバックになっていないし、それでは、なぜガボンの医療に尽くさないのか?さらに、学校を作り教育は良いことだけが、どうせ公用語としてフランス語をおしつけているんだろう。あなたが、大学で教鞭をとらずに現地へ行った方がよいのではないか?
 と、喧嘩を売るようにきつく言った。
 
 今思えば、他国へ留学し、その他国を批難・酷評するチンピラになっていた。当時、日本は高度経済成長期の頃で、ジャパン・アズ・ナンバーワンという言葉が世界中で言われたことだ。
 
 今で言うと、人権問題際別にすれば、日本は中国のような経済成長を成し遂げていた。
 しかし、日本は一部の最先端技術が優れていると評価されただけで、国際的な政治力はなかった。G7サミットがあれば、記念撮影の時、日本の顔である首相は、一番隅に居て写真に姿全部が映っていないなど、政治力がないことは明らかであった。
 
 それに引き換え、フランスは農業国と言われても、アリアンスロケット、コンコルド、自家用車、TGV(新幹線)、原子力空母と科学技術は進んでおり、それがフランスの威信であった。
 
 その教授は、アジアの片隅から来たわたしは、フランスの威信をかけて黙らせなくてはいけないのだが、それができず、ヒステリーを起こして泣き始めた。
 
 さすがに、教室はざわめき、教授を励ましにヨーロッパ人たちが集まって行った。
 
 わたしは、わざと冷たく無言のまま、そこを振り返らずに立ち去った。
 
 数日後、その教授と大学の入り口のことろであった。
 何とわたしに日本語で話しかけてきた。
 わたしの気持ちをきちんと理解してくれていた。
 教授は、日本語の勉強のために栃木県に滞在したとのことだった。
 
 ありがとう!と言った。
 過ぎ去ったことを蒸し返すことはなかった。

ソルボンヌ大学


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