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【山女】日本昔ばなし版ミッドサマーと呼ぶべき渋さが光る逸品【あらすじ感想】

個人的には今年の日本映画トップクラスです!

今年は私の好みにハマる日本映画が多いです。

山女
大飢饉に襲われた18世紀末の東北の寒村。先代の罪を負った家の娘・凛は、人々から蔑まれながらも逞しく生きている。ある日、父親・伊兵衛が村中を揺るがす事件を起こす。父の罪を被り、自ら村を去る凛。禁じられた山奥へ足を踏み入れたことから、凛の運命は大きく動き出す。

『山女』公式ホームページ・Introductionより引用

▼あらすじ(ネタバレ):

アバンタイトル
 18世紀後半の東北。冷害になって2回目の夏。農家で一人の子が産まれる。しかし食わせられないので両親はすぐに窒息死させる。死体処理の汚れ仕事をやっている凛(山田杏奈)は遺体と料金を受け取る。凛は川に遺体を流して山に向けて祈る。

第一幕
 
村の祈祷師(白川和子)が神のお告げを聴くも、お天道様はまだ暫く現れそうにない。凛は井戸で水を汲もうとして村人たちから穢れている者が使うなと虐められる。帰宅した凛は盲目の弟正吉に白いリンドウを渡す。何か幸運の前触れかもしれない。夜、凛の家族は薄い粥を食べている。正吉は凛の少食を心配するが、父の伊兵衛(永瀬正敏)は気にするなと言う。ある日、村で最後の米配給があったが、曾祖父の罪を負わされた凛の家は田を没収されており十分に貰えない。伊兵衛は抗議して暴れるも村人達に暴行されて諦める。
 凛が河原で山を眺めていると、村の外で行商をしている泰蔵(二ノ宮隆太郎)が帰ってきて馬を休める。どこの村も飢饉が酷くて品物を売れなかった。外の世界を見られて羨ましいと言う凛に、泰蔵は次の旅は一緒に行くかと誘うが、凛は弟を置いて行けるかと怒る。村に帰った泰蔵は有力者の治五郎(でんでん)から孫の春(三浦透子)と見合いをしろと命じられる。夜、凛の家族は砂まじりの不味い粥を食べている。姉弟は死んだら早池峰山に行って幸せに暮らせるのだと他愛のない話をする。伊兵衛は不機嫌そうにしている。真夜中、嵐の中でどこかに出掛けていた伊兵衛が帰宅した物音で凛は目を覚ます。
 翌日、泰蔵が神社の裏に行って春に会ってみると不機嫌そうにしていたが、その場でセックスして二人は夫婦になる。一方で米を盗んだ容疑者にされた伊兵衛は村の者たちに家宅捜査されて米が見つかる。絶体絶命のピンチに、凛が嘘の自白をして罪を被る。伊兵衛はここぞとばかりに凛を折檻する。あまりの殴りっぷりに村人達は一度引き下がる。正吉は殴った伊兵衛を非難するが、凛は父を救うためには仕方なかったと言って、むしろ家に咎人を出したことを詫びる。
 そして夕暮れに凛は黙って村を出て行く。

第二幕
 人里と山の境界に置かれた祠を越えて、凛は深い山奥へと入っていく。神隠しに見せるために村の入口で草鞋を脱いできたので足が痛む。夜になって狼の群れに襲われそうになるが、謎の山男(森山未來)が現れて狼を追い払う。凛は後に付いて行き、山男から何かの動物の生肉を分けられる。
 翌日、村では凛の狙い通りに神隠しに遭ったと処理される。泰蔵は伊兵衛に怒りを露わにして、次の行商で凛を探すと宣言される。眠りから覚めた凛は木の実を集めながら山男の帰りを待つ。夜になって火を焚き、山男と食事をとる。眠りにつこうとする山男に凛は裸になって身体を差し出すが、山男は添え膳食わず。こうして凛と山男の親子のような共同生活が始まる。
 行商の道中で泰蔵はマタギ集団から山女の目撃情報を仕入れる。同じ頃、不作が続く村では、祈祷師の提案で村の娘を生贄にすることが決まる。しかしどの家も生贄を出したがらない。赤子を捨てる仕事を引き継いだ正吉は八つ当たりされて金さえ払ってもらえない。一方、凛は山での生活にも慣れて心穏やかに暮らす。凛は髪の手入れをしたり、白いリンドウを見つけたり、早池峰山の伝説を山男に話してやったりする。
 村に戻った泰蔵は村長(品川徹)にマタギを雇って凛を捜索するよう請願する。生贄を探していた村長と治五郎はこれを許諾する。凛は山男の上着を織ってやり、山男の髪を手入れしてやる。マタギ集団と泰蔵は祠を越えて山に入る。泰蔵は凛を見つけて説得するが拒否される。そこに山男が現れてマタギ集団と殺し合いになる。山男はマタギを何名か撲殺するが、火縄銃を複数発食らって絶命する。凛はその場で自分も殺せと懇願するが、村に連行される。
 村に帰って凛は監禁される。伊兵衛は罪の帳消しと引き換えに凛の生贄を受け入れる。泰蔵は黙っていた春を責めるが春は村の掟には逆らえないと一蹴する。夜に父から生贄のお勤めを告げられて凛は了承する。泰蔵は牢屋の前で泣き崩れて凛に謝罪するが、結局家に帰って春を抱く。
 真夜中の牢屋で、凛は馬の銀色に光る立髪に、山男の面影を見る。

第三幕
 村人総出で火炙りの儀式を行う。伊兵衛は家に留まる。正吉も伊兵衛の指示で家に居たが、耐えられず会場に向かう。凛が磔柱に縛られながら山を見つめて早池峰の天国へと想いを馳せる。凛の足元に火が着けられた直後に激しい通り雨が来て火を消してしまう。雷が磔柱を直撃して縄が解ける。すぐに気絶から目覚めた凛は朦朧とした意識のまま山へと歩き出す。村人達は神が降りたと恐れ慄くばかり。
 そして凛は山へと姿を消す。これから山女の伝説として後世まで村で語り継がれるのであろう。

▼感想:

渋くて素晴らしい作品ですね。撮影と照明がとても美しいです。洗練されているが、ものすごく地味で暗い画面が続く攻めた演出には痺れました。

遠野物語をベースにしたというストーリーと脚本も日本の民間伝承らしく陰鬱かつ呪術的で良いです。

私は本作を『日本昔ばなし版ミッドサマー』だと認定したいです。あの世界的ヒット作品のような解りやすいお洒落感はないですが、だからこそ美しいと言えると思います。何より日本人である私達の生活や文化や歴史背景にマッチした雰囲気は、まさにローカライズと呼べるものであり、そこに高い価値があると思います。

公開規模が小さいのが勿体無いですね。シネコンでも上映すれば良いのに。

意味が解ると怖いシーン

●とにかく撮影が美しく世界に通用する魅力がある

私は撮影を特に褒めましたが、裏方の国際色が豊かな作品です。これが本作のテーマはすごく日本的なのに、日本映画の枠に止まらないユニバーサルな魅力を持った、尖ったテイストになれた要因の一つでしょう。

撮影:ダニエル・サティノフ(米国)
照明:宮西孝明(日本;原田眞人作品の常連)
美術:寒河江陽子(日本)
衣装:宮本まさ江(日本)
録音:西山徹(日本)
整音:チェ・ソンロク(韓国)
編集:クリストファー・マコト・ヨギ(ハワイ)
音楽:アレックス・チャン・ハンタイ(台湾)

特に印象的だったのが、凛が牢屋で父と話す場面です。とにかく暗くてスクリーンいっぱいに広がる黒一面の中心に、小さく凛の顔が半分ほど光で浮かび上がるだけです。そして伊兵衛の顔は完全な逆光で表情が全く読み取れません。ここは父娘が苦悶の表情で厳しい選択を迫られる場面なので、泣きじゃくる二人の表情を見せて、いくらでも御涙頂戴の雰囲気に出来るところを、本作では一切見せません。凛は口を結んだまま何も喋らず、表情も変えず、音楽もなく、ただ伊兵衛の言葉だけが無機質に響きます。この攻めた演出はすごいものがありました。

また何度も映し出される早池峰山も印象的でした。お天道様が滅多に射さない景色は、どこかアイルランドやスカジナビアとも似通った、気分を落ち込ませるような曇天で、微妙な濃淡が織りなす微細なグラデーションがまさに山の表情の違いを捉えていて、画面に映し出される都度に表情を変えて味わいがありました。

これはぜひ、映画館の暗い部屋で観てほしいなあと思いました。

●実は元々はテレビ映画だったらしい?

これは観覧後に知ったのですが、初出はNHKでのテレビドラマとしての放送だったようです。これは意外でした。確かに予告を見た時にNHKの名前があったのは気づいていましたが、むしろ本作を劇場観覧して私は「NHKのスタッフが持てる技術を投じてテレビでは出来ないことを映画でやった」という流れかなと思っていたので。

映画『山女』本予告|6月30日(金)全国順次公開
アニモ映画部

制作プロダクション:シネリック・クリエイティブ ブースタープロジェクト
国際共同制作:NHK|製作:「山女」製作委員会
配給:アニモプロデュース|配給協力:FLICKK
2022年/日本・アメリカ/98分/カラー/シネマスコープ/5.1ch

『山女』予告・YouTube概要欄より

国際共同制作ドラマ テレビ版「山女」
2022年10月17日 NHKBSプレミアム
18世紀末、冷害による飢えに苦しむ東北が舞台。人間の脆さと自然への畏怖を、一人の女性の生き様を通じて描く物語。山田杏奈×森山未來×永瀬正敏の豪華キャスト、そして新進気鋭の監督・福永壮志。「遠野物語」にインスパイアされたオリジナルストーリーを、日米混合スタッフが妖しく美しく彩る!

NHKホームページより

テレビ版では75分で、映画版は約100分です。どのシーンが拡張部分なのかは気になります。どれも欠けてはいけないシーンのように感じました。

某Filmarksでテレビ映画として作られたという情報に言及しつつ、本作の美術衣装やヘアメイクを貶してるコメントも見ましたが、そんなに悪くなかったと思いますけどね。主演にもう少しスキニーな女優を起用しても良かったという意見だけは解らなくもないですが。失礼ですが、それ以外はどれもテキスト情報に基づいて判断してそうというか、あまり良い観察眼をお持ちでないのかしらとは思ってしまいますね

*この場面では肉をよく食べてるのでふっくらしてて問題ないと思います。

●泰蔵と春が映し出す村のリアル

三浦透子と二ノ宮隆太郎の演技が良かったです。

村が決めた掟には逆らえない春。自分の意思が反映されないところで勝手に決められた縁談に文句は言いつつも泰蔵との見合いであっさり受け入れてその場でセックスするとか、彼女もこの機会を逃しては嫁入りを逃すことをよく理解していることが判りますし、泰蔵の凛への気持ちを察しているからこそ強引に襲って関係を既成事実にしたのでしょう。

春はその後も泰蔵の気持ちを無視し続けて、泰蔵が凛を救おうとしても意に介さず夫婦関係を維持して、泰蔵が牢屋に凛を救出に出掛けた夜も帰ってきたら直ぐに家に入れてやります。映画では描かれませんが、あのあと絶対に身体で慰めているでしょう。そもそも泰蔵が行商から帰ってきた日で、春も肉欲に飢えていたのかもしれません。あるいは夫婦が壊れると彼女も傷物扱いになるので、それを畏れていたのか。

セックスに関しては、子供が産まれても直ぐに殺すしかないのに、子作りは止められない村人たちがなんとも滑稽で悲して人間らしくて、あらゆる感情が入り混じった情緒があり、とても良かったです。もしかしたらNHKで放送されたテレビ版ではこのあたりの話題がカットされたのかしらと邪推します。

今夏はプーさんとかパールとかハイジとか欧米のホラー話題作が多いですが、本気のホラー映画を観たいなら『山女』をオススメしたいです。直接的なスプラッタやグロシーンは控えめですが、日本らしい《ムラの恐怖》を味わえる稀有な作品だと思います。

●時代考証で気になった箇所

本作では凛の家族が先祖の咎を背負って汚れ仕事をしている、つまり穢多(えた)として生活しており、村人から蔑まされています。田んぼを所有してないので食うものにも困る超貧困層として描写されているのですが、江戸では汚れ仕事を請け負う穢多はむしろ裕福な暮らしをしていたという話を聞いたことがあるので、少し気になりました。やはり人口が少ない田舎では江戸のように毎日誰かが死ぬということも無いし、商人も居ないので、貧乏になってしまうんですかね。

●オカルトな呪術と日本版ミッドサマー

このnoteのタイトルでも《日本版ミッドサマー》と形容しましたが、本作は田舎の村に伝わるオカルトな呪術が大いに活躍します。これは東北地方だからこそ出来たストーリーでしょう。飛鳥時代から1,000年以上かけて京都を中心に貴族や武家の勢力争いで天下が動き文化がアップデートされても、宮城より北の奥州地方では縄文時代の風習を色濃く残した民間信仰が続きました。だからこそ民俗学者の柳田國男は当該地方に伝わる民間伝承を集めて『遠野物語』を執筆して、縄文オタクの宮崎駿は『もののけ姫』の出発点に東北地方を選びました。

日本人は神道も仏教もキリスト教も見境なく生活に取り込んでしまうので、よく「無宗教」だと言われがちですが、欧米から来た「宗教」という言葉には神への信仰やお布施やお祈りという行為だけではなくて、「特定の死生観を社会が共有すること」も含まれます。そういう意味ではお盆休みが現在でも一般的でご先祖様を尊重するのみならず、毎日の食べ物さえ粗末にしない(=命に敬意を払う)日本人はかなり宗教的な民族だと言えます。

日本の宗教観は独特ですね 神仏習合が原点にあるせいか、一個の大枠にはとらわれない性質になってると思いますが、宗教を尊重する精神が欠けてるわけではなく、皆宗教的な倫理観に沿って生きています しかし、神仏ならどれもありがたいと思いがちであり、無宗教と言われる所以はここにあると思いますね

午後0:54 · 2023年7月8日

私は、これは日本が太平洋戦争や昭和までは天皇陛下を八百万神の一番上に認識している国民が圧倒的多数だったからだと思います。天照大神=お天道様=天皇陛下が最上級の神として君臨していらっしゃるのだから、その配下にはどんな世界の神様が並んでいても許容できるのです。だからこそ日本各地には色々な神を祭る寺社があるし、諸外国からキリスト教やイスラム教の人達が入ってきてそれぞれの教会や墓地を作っても寛容になれるのでしょう。

むしろ現在の日本が無宗教に見えるのは戦後にGHQが憲法改正などを通して現人神たる天皇を「建前」上は無効化して、それから先の世代は強く左傾化した共産主義が主導する教育要項に呑み込まれて天皇を正しく知らない(=思想教育された)面が大きいからでしょう。ポツダム宣言の直後にニッポンを守るために日本の政治家たちが米国に講じた「建前」ばかり義務教育で教えていたら、日本国民が何十年もかけて「本音」を忘れてしまった成れの果てが現在の宗教に無頓着な日本です。

解りやすい例として織田信長があります。信長は戦前戦後を通じて庶民に人気の高い戦国武将です。現在は「天皇を倒そうとした男」という文脈で語られますが、しかし戦前までは「混乱していた日本を天皇のために統一した英雄」という全く逆の見方がメジャーでした。これこそまさに国民の天皇陛下の捉え方が敗戦後に真逆に変わったことと、世間の価値観がひっくり返っても織田信長は人気であり続けたことを示す、興味深い逸話だと言えます。

1980年代になると(中略)室町時代研究の今谷明さんが、織田信長は新たな「国王」としてこの国を統治しようとしたが、正親町天皇(おおぎまちてんのう)をはじめとする旧来の権威を一掃することができず、むしろ正親町天皇に敗れてついに「国王」なることができなかったと主張し、歴史好きな一般読者の間でもずいぶん話題となった。
つまり、信長は天皇制をあと一歩のところまで追いつめたが、最後の最後で失敗した、ということになる。
ところが、戦前までさかのぼると、信長はむしろ落ちぶれた天皇・朝廷を盛り立てて再興した忠臣として扱われていた。天下統一も、天皇ために国内を統一したという位置づけだった。信長は「勤王家」だったということになる。
戦後、日本の歴史学界は戦前の皇国史観に対する反動から、天皇や朝廷の存在を無視するか、滅びるべき存在だったとみなして思考停止する傾向が強かったと、一般的には理解されている。戦前に「勤王家」として評価された信長は、前述のように、一転して旧来の天皇・朝廷権威への果敢なチャレンジャーとして評価されるようになる。失敗したけれど。
どっちにしても「評価」されるところが、さすが日本史上屈指の人気を誇る信長だが、こうした状況を知ったら、泉下の信長もさぞかし驚くことであろう。

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知識としては忘れ去られた宗教観ですが、何しろ日本は2,600年続いている国なので生活文化に深くDNAレベルで染み付いています。このため田舎の農村に残るような日本古来の呪術的な文化風習は、普段の自分の生活に馴染みがなくても、どこか心の深い部分で響きます。それは先述したような食料を大事にすることとか、家で靴を脱ぐとか、隣人との付き合い方とか、結婚の決め方とか、そういう生活レベルに形を残しているからです。

本作のクライマックスである山に生贄を捧げる儀式は、不気味で禍々しく見えても、どこかこれで上手くいきそうな気がしてしまうのも、また事実です。ラストで凛は早池峰山に向かって歩いて行きますが、あのシーンを観て「何を無駄なことを」とあなたは思いましたか?ほとんどの日本人が「ああこれでお天道様が戻って冷害が終われば良いな」と思ったはずです。

これは日本の文化の深いところで、このような信仰が根付いている証拠です。きっと合理主義の欧米人にはこの感覚は理解できないでしょう。まさに欧米人がジャパンに抱くミステリアスでオカルトな印象の鍵がここにあります。だからこそ北欧の文化で語られる『ミッドサマー』よりも、本作の方が日本人にはよく響くのだと私は思います。

了。

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