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がんばんなさいよ

「"がんばれ"ってあまり人に言わない方がいい」
「無理に頑張らなくていいんだよ」

昨今の社会ではそんな言葉をよく聞く。
確かにそれもそうだと思う。
頑張る、特に無理をして頑張ると何かしらの負担がかかり、心や体に支障をきたすこともある。
それはわかっているのではあるが、人には頑張って立ち上がらなければいけない時もあるし、何かを頑張ったことで自分の未来が開けていく時もある。

そして私には、自分がしょんぼりした時に前を向けるような特別な「がんばれ」がある。
それは祖父から何度となくもらった「がんばんなさいよ」という言葉だ。


祖父が亡くなったのはもう5年以上前の春。
私はちょうどその日東京で引っ越しをしていて、友人に作業を手伝ってもらっていた。
仕事も多忙な中、恋人との同棲が解消となり失意というか満身創痍というか、とにかく色々が詰んでいる状態だったあの時。
わくわくよりも、悲しさと「それでもやらなければ」という気持ちの方が大きかったちょっと複雑な心境での引っ越しを、なんだかなぁという気持ちでこなしている時だった。

荷物の運び入れが一段落して、あとはゆっくり荷解きするだけ。
手伝ってくれた友人へのお礼も兼ねて、私たちは軽く一杯だけ飲もうかと近くの立ち飲み屋さんに行くことにした。
取り急ぎ移動は完了だね〜なんて言いながら乾杯をしたまさにその時、私の携帯が鳴った。


着信は実家の父からだった。父はめったに電話なんてしてこない。
携帯の表示を見ながら、あぁ、何か大変なことが起こったのかもしれないとなんとなく悟る。
無理だ、誰の何も聞きたくない。
今これ以上辛いことが起こったら、本当にダメかもしれない。

そう思いながらも、無視をするわけにもいかないので恐る恐る電話を取ると、いつもの淡々とした調子ではなく、ちょっと無理をしてゆっくり穏やかに話しているような口調の父から、実は数日前から調子が悪かった祖父が先程息を引き取ったという連絡を受けた。


訃報を聞いた私は、その場ですぐに翌日の飛行機のチケットを取った。
文字通り今すぐ飛んで帰りたい気持ちだったが、どう頑張っても今日この時間から北海道に帰ることはできない。
もっと言うと私の家は今、ダンボールの山で埋もれている。
さきほど到着したばかりの積み立てほやほや、1つも開封していないダンボールたちである。

どうしよう...靴、スーツ、"嫌だ"、数珠はどこにしまい込んだだろうか、"嫌だ"、あっ職場に連絡、"嫌だ"、あとは何が必要?
嫌だ...おじいちゃん。嫌だよ。
考えなければいけないことと、それを遮断するような悲しみと衝撃。


お葬式をどこでやったのかも、どんな心境だったかもよく覚えていないくらいの年齢の時に母方の祖父を亡くして以来、身内の訃報を聞き葬儀に出席するのはこれが初めてだった。

「私のもの、服でも何でも貸すから今日は余計なことしないですぐ寝て、後のことは帰ってきてからゆっくりやればいいよ。とりあえず明日飛行機に乗ることだけ考えよう」

せっかくのお疲れ様の乾杯を早々に切り上げることになったにも関わらず、友人はすぐさま近所だった自宅に戻り必要そうな物をいくつか貸してくれ、取り急ぎ最低限の準備をした私は、翌日地元の北海道に向かうことに。
ため息しか出ないような引っ越しを全面的に協力してくれ、そしてこの突然の連絡にも落ち着いて色々フォローをしてくれた友人には今でも頭が上がらない。


祖父は、96才の大往生だった。
定年退職してからも危険物取扱者やボイラー技士など、持っていた様々な資格を活かして何度か再就職し、75才くらいになるまで色々なところで元気に働いていた。

小学生の頃、私は「はい、〇〇暖房です」なんて明るい口調で電話に出る「働いているおじいちゃんの声」を聞くのが大好きで、夏休みに祖父母の家に行った際など何かしら用事があって会社にいる祖父に電話をしなければいけないという時は、よく「私がかける!」と言ってジーコジーコと祖父の家の黒電話を回し、喜んで祖父の職場に電話をかけていた。
今思うと小学生の孫からの電話なんて、イタズラ電話にも近い迷惑な話である。

祖父は趣味も多く、仕事を辞めてから始めた詩吟や習字はいつの間にか雅号を持つまでになっていて、よく展示や発表会に出ていたり、水墨画にまで手を広げるくらい器用だった。
祖父の家には昔何かの大会でもらったであろう謎のトロフィーがぽんぽんと置かれていたりもした。

ちなみになぜ謎なのかというと、年代物すぎて地震や事故で何度か落下してしまったのか、上についている人間の腕の部分や細いパーツが欠けてしまっていたり、詳細が書かれているはずの下のプレートがなかったりして「このポーズってことは、うーん…釣り?こっちは、ボーリング…?」なんて言いながら、かわいそうな感じになった金色人間のジェスチャーで何の大会だったのか判断するというようなトロフィーもあったからだ。

また、祖母がパーキンソン病を患ってからは、思うように体が動かない祖母に代わりそれまで任せっきりだった炊事洗濯掃除などの家事をこなし、祖母の病院の送り迎えもして、誰にも頼ることなく2人で暮らしていた。
祖母が当時ハマっていた韓国ドラマも逐一録画をして、達筆な字で「冬のソナタ」なんてビデオテープに書いて綺麗にラベリングまでしてあげていた。


しかし何年か前の冬、祖父が雪かきの際に転んで骨折してから2人の生活は一変した。
祖父は入院し歩行器を使ってリハビリに励んでいたのだが、いかんせん高齢のためやはりどうしてもスタスタと歩けるまでにはならず、そこから祖父は車椅子生活となってしまった。
祖父に介護が必要になり、同時に祖母の病状が徐々に進行してきたこともあって、祖父は両親の家へ、祖母はグループホームに入り、2人は別々に暮らすことになった。


ちょうどその頃に帰省した時のことは今でもはっきりと覚えている。
1年前に帰った時には2人とも元気で、祖父母の家に顔を出すと私のことを笑顔で出迎えてくれていたのだが、グループホームに様子を見に行った時、祖母の姿はまるで変わっていた。

病気の進行のためか上手く話せなかったり、表情がよくわからないというのもあったかもしれないが、話しかけてもなんとも言えない反応。
祖母は、どうやら私のことがなんとなくうろ覚えになってしまっているようだった。
「まぁ年だからねぇ。病気も影響してるらしいし、色々わからなくなるんだよ。仕方ない仕方ない」と母が言う。

両親と暮らす祖父は、私のことを覚えてはいたものの、大好きだった詩吟も習字もやらなくなり、話をする度に「もうおじいちゃんは食べるくらいしか楽しみがないなぁ」とちょっと寂しそうにしながらも「だから一日中ずーっと、なんかしら食べてんだ」なんて冗談っぽく言って笑っていた。
帰省している間にその言葉を10回以上は聞いたと思う。

それからもうしばらくして、私は母から、祖父にも若干認知症の症状が出てきたかもしれないという話を聞いた。
相変わらず明るい口調で「しょうがないよ」と母は言ったが、毎日一緒に過ごして祖父の変化を見てきた母と比べると、私には今まで当たり前だった祖父母や家族の形がなんだか急激に変わってしまったような気がして、なんとなくその現実を素直にそうかと受け止めることができずにいた。


そんなある日、祖母の入居していたグループホームに空きができたそうで、両親が2人同じ場所に住めた方がいいかもしれないねと話し合った結果、部屋はそれぞれ別ではあるが、祖父は祖母と同じホームに入居することになった。
そして入居して約1週間後、私は母からびっくりするような話を聞く。

「今日ね、おばあちゃんとおじいちゃん、グループホームで初めて会ったんだけどね。おじいちゃん、おばあちゃんのこと見て「どなたですか?」って言ったんだよ」

祖父がホームに入居し、そろそろ落ち着いただろうからということで、母が祖母を祖父の部屋に連れて行ったところ、祖父は祖母のことが誰なのかわからなかったと言う。
住まいや生活がガラリと変わって、祖父は混乱していたのかもしれない。
あれ?でも...。

私はつい疑問に思い「おじいちゃんが...?ん?どっちかって言うと、おばあちゃんの方が認知症というか、誰が誰とか、わからなくなってるんじゃなかったっけ...?」と聞いた。
祖父は時間の感覚などはよくわからなくなっているようだったが、私のことや兄のことなどを両親とよく話していると聞いていたからだ。
私のことはわかるのに、おばあちゃんのことは誰だかわからなくなっちゃったってこと...?

「まぁねぇ。おじいちゃんもおばあちゃんの顔久しぶりに見たし。おばあちゃん、髪も短くしちゃったし筋肉も落ちて顔つきもだいぶ変わっちゃったから、パッと見てわからなかったのかもねぇ。よく考えたら骨折で入院して以来だから、1年近く会えてなかったしね」


そうか...。
そう言われてみればなかなかの時間が経っているし、1年前と比べたら確かに祖母の見た目がかなり変わってしまったということもある。
それも仕方がないことなのかなというのはわかっていつつも、なんとも言えない気持ちになる私。

「でもね、おじいちゃんに「どなたですか?」なんて言われちゃったから、おばあちゃんびっくりしちゃって。それから毎日おじいちゃんの部屋に行きたいって言うもんだから連れてってるよ。おばあちゃんは、おじいちゃんのことはちゃんと覚えてるみたい」

母とのその会話が、私が祖父の訃報を聞く前までの最新情報だった。


父から連絡を受けた翌日、私が葬儀場に到着した頃にはもうほとんどの準備は終わっていて、私は次の日からの式にただ出るのみというような状態だった。一度葬儀場から引き上げ、主のいなくなった祖父母の家に両親と行き、明日のために荷物などをいろいろ整理する。

実の息子である父はいつもと変わらず淡々としていて、母もまたいつものように暗い表情は見せず「お棺に何入れてあげようか。習字の作品はもったいないから取っておきたいよね〜。筆とか?それかこれはどうかな、燃えないから入れちゃダメって言われちゃうかな?」なんて、まるでピクニックに行く準備でもしているかのように明るく言いながら、祖父の思い出深いものはなんだろうかと家の中を探し回っていた。
そんな光景を眺めながら、私は一人2階へ上がっていく。


私は2階の一室に、アルバムがあることを知っていた。
台紙に現像した写真を貼って上からフィルムでカバーする、あの表紙がやたらと重たいどっしりとした往年のアルバムだ。
ちょっと埃っぽい棚からそれを何冊か引っ張り出してみる。
パラパラとめくるとそこには元気だった頃の、つい数年前までの祖父や家族の写真がきっちり収められていた。
祖父は几帳面な性格で、アルバムを作るのも好きだった。

旅行に行ったり、みんなで集まって写真を撮る度にこまめにそれをアルバムに貼っていて、何年に誰とどこに行ったなどの情報も細かく写真の横に書かれている。
私は懐かしくなって、そしてやっぱりこのアルバムの中の祖父の姿が私の記憶に染み付いている「おじいちゃん」な感じがして、次から次へとアルバムを出してきてそれを眺めた。
それと同時に、写真には写っていない幼い頃の祖父とのなんでもない日々の思い出が、頭の中にどんどん蘇ってくる。

冬になるとムートンのシーツを入れた布団を敷いて「ほら、おじいちゃんとこで寝るか?」と私を呼び、ふわっふわのあたたかい布団に入れてくれたおじいちゃん。旅行先でガラスの自動ドアに気づかず思いっきりぶつかって「ドアの方がおじいちゃんに気づいてなかったんだぁ」なんて言いながら笑っておでこをさすっていたおじいちゃん。兄が将棋に挑み勝てなくて悔しそうにしていると「よし、もっかいやるか?」と言って、手は抜かないけれど何度でも付き合ってくれたおじいちゃん。

アルバムをめくるたびに様々な記憶や色々な気持ちが込み上げる。
見るほどに泣きそうになってしまうのに、その手を止めることができずに私はひたすら写真を眺め続けた。


一番手前にあった最近のものから奥にあったアルバムにすすむにつれ、どんどん時代が遡っていく。
アルバムには旅先のパンフレットや私の名前を付けた時の命名書まで綺麗に貼られて残されていた。
私が生まれ、兄が生まれ、母と父が結婚して、さらに昔のアルバムを開くと父が青年から子どもになり、祖父がおじいちゃんからおじさん、そして若者になっていく。

「すごい...」

私はつい、一人で声を漏らした。
今までは自分が写っている写真しか見たことがなかったが、もっともっと奥のアルバムを出すと、私の知らない祖父がどんどん出てきた。

祖父は晩年、何年かに一度1人で写真館へ行き、自分の写真を撮ってもらっていた。「これでいつ死んでもいい顔の写真が使える」なんて笑いながら言っていたのを覚えている。
それにしても、こんなに昔の写真まで残してたんだ。
これは多分祖父と祖母の結婚式?これはもっと若い、学生時代だろうか。

おじいちゃんって「おじいちゃん」の顔しか知らなかったけど、若い頃は結構イケメンだったんだなぁ。鼻筋が立派で、なんか小綺麗な寺門ジモンって感じだな...なんて、色褪せたアルバムをめくりながら思っていると、母が2階に上がってきた。

「あっ!あんたそんな勝手に色々広げて。何してんの!」

ちょっと怒られそうな気配がしてすかさず「これ見て」と若い頃の祖父の写真を指差す。おじいちゃん、ヘルプ。

「あら〜!すごい、これおじいちゃん?こんな写真残ってたんだねぇ。おじいちゃんマメだったもんね。へ〜どれどれお母さんも見たーい。
あ、そうだ。これ、明日会場に持っていこうか。待つ時間もあるだろうし、みんなも見たいんじゃない?1階にもグループホームで撮ってもらった写真がちょっとあるから、それも持っていこう」

母にそう言われ、秘蔵のイケメン写真によって散らかしたことを怒られずに済んだと祖父に感謝しながら、私は古いアルバムを2階から降ろし、1階にあったものとまとめて車に乗せた。


翌日、グループホームからスタッフの人に介助され、車椅子に乗ってきた祖母はびっくりするくらいしゃんとしていた。
きちんと喪服も着ていて、私が前回会った時とはまるで別人のようだった。
病気のせいでちょっと前屈みになり、手にも震えがあったものの、私を見て「久しぶりだねぇ。わざわざ東京から来させて悪かったね。飛行機すぐ取れたのかい?」と言いながら、あまり力の入らなくなってしまった手でふわりと私の手を握ってくれた。

ん...?おばあちゃん、私のこと、思い出してる...?

祖母は、私のことが誰だかわかっていた。
それだけでなく、私が今どこに住んでいるのかまで知っていて、移動手段の心配までしてくれた。
後から母に聞いた話だが、祖父がホームに来てからというもの、祖父に「どなたですか?」と言われたのがショックだったのか、はたまたこれは大変だ!と思ったのか、祖母は祖父の部屋に毎日連れて行ってもらい、祖父と色々な話をしていたと言う。
「おばあちゃんもあんたのこと、そこで話してるうちに思い出したんじゃな〜い?」なんて母は軽く言ったが、私にとっては信じられないことだった。

毎日顔を合わせているわけでもない私は、なんとなく祖母にはもう二度と自分のことを思い出してもらえないような気がしていたからだ。
時々一瞬思い出すことはあるかもしれないけれど、前回グループホームで会ったあの日、なんというか、私はもう祖母の記憶の中から消えてしまったのかもしれない…なんて感じていた。
仕方がないとはわかっていつつも、なんとも言い得ない切ない気持ちになっていたのだが、こんな事が起こるなんて...。
びっくりしつつも、祖母が自分のことを思い出してくれて、私はすごくすごく嬉しかった。


祖母は車椅子の状態ではあったが、今夜はみんなと一緒にここにいたいと言い出したため、グループホームに許可をもらって一緒に葬儀場に泊まることになった。
久しぶりに親戚の人たちと会えて嬉しかったのか、それとも喪主として、妻として最後までちゃんとしなければと思っていたのか、祖母のその時の心境は私には想像できないくらい色々な思いがあったのだと思う。
祖母は疲れた様子を見せることもなく、みんなと一緒に葬儀の前夜を過ごした。

私はなんとなく、祖父のおかげでもう一度昔のように祖母と話ができたような気がして、悲しいはずなのにちょっと嬉しいような、なんとも不思議な気持ちになった。


翌日の式は穏やかであたたかなものだった。
身内だけで慎ましく行った分ゆっくりとした時間が持て、私たちは例のアルバムを見ながら、引き続き親族で祖父の思い出話をした。

祖母も、昔祖父が酔っ払って帰ってきた時に無理やり息子たち(父と伯父)を起こして、お土産に買ってきた寿司折りを夜中に食べさせた話など、今まで聞いたこともなかったようなエピソードを面白おかしく語ってくれた。
父も珍しく饒舌になり「いや、寿司は嬉しかったけどさ。子どもだからもう眠くて眠くて、しかも寝起きで食べてるわけだから味なんて全然わかんなかったよ」なんて話す。
父が笑っている。祖母もその隣で穏やかに微笑む。


わいわい話をしながらみんなでアルバムを広げていると、見覚えのないファイルに目が止まった。
アルバムというよりも真新しくて薄い、クリアファイルのようなもの。
それは、昨日母が言っていたグループホームで撮影された写真が収められたファイルだった。
そこにはホームのスタッフの人が一枚一枚写真を貼って、月ごとの催し物の報告や最近の祖父母の様子を書いたコメントが添えられていた。

へ〜、グループホームってこんなこともしてくれるんだ。最後に一緒のホームで過ごせて本当によかったな、なんて思いながらそれをパラパラと眺める。
それでも、やはり直近の祖父母は体型はもちろん、髪型も顔も、私が知っている慣れ親しんだ"おじいちゃん"、”おばあちゃん”とはちょっと違っていて、なんだか不思議な感覚。

魚の形なんて跡形もなくなるくらい綺麗に焼き魚を食べていた祖父が、「ほらほらこぼして」なんて言いながら私の食べこぼしを拭いてくれていた祖母が、エプロンをつけ、合わなくなってしまった入れ歯も外して、柔らかそうなごはんをおぼつかない様子で食べている写真などを見ると、自分勝手な話なのだがちょっと悲しいような気持ちになったり。


そして次のページをめくった時、私の手が止まった。
それと同時に、心臓も一瞬止まったのではないかというくらいの衝撃が走った。そこには祖父と祖母が笑顔で並ぶツーショットが写されていた。
そして横のコメントに、こんなことが書かれていたのだ。


”今日はお2人とも体調も良く、夫婦でパシャリ!
「最愛の家内です」と笑顔で職員に話して下さり、幸せそうでした。"


そんな…そんなことがあったなんて。
私の認識では、祖父は祖母のことがわからなくなってしまったというところで最新情報が止まっていたが、本当に最後の、最新のおじいちゃんは、祖母のことをきちんと思い出していた。

その文字と2人の笑顔を見た瞬間、小さい頃からずっとニコニコと笑って私たちを見守ってきてくれたおじいちゃんとおばあちゃんのこれまでの姿がぶわっと蘇ってきた。
昔はあんなに日に焼けて体も大きかった祖父が、写真では色白になり、顔の肉も落ちて、オールバックにしていた髪の毛も坊主のようになっている。
まるで見慣れない祖父。しかし、そこに写っていたのはまぎれもなく、私の知っているおじいちゃんとおばあちゃん、2人の幸せそうな笑顔だった。
私は生まれてはじめて、家族って本当にすごいな、夫婦っていいなと思った。心から、そう思った。


人生には、ドラマのような奇跡の瞬間や感動するような素晴らしい出来事もたくさんある。しかし、生活はずっと続く日常だ。
私は自分が見た都合のいいところだけを切り取って話しているのかもしれない。両親も2人のお世話で本当に大変だっただろうと思う。
祖父が祖母のことを思い出したのは、もしかすると一瞬の出来事だったかもしれない。それをグループホームの人が綺麗に書いてくれただけかもしれない。
それでも、一瞬だったとしても、思い出した瞬間に最愛の人が隣にいること、そして笑顔を返してくれること、それを綴ってくれる人がいるということは、なにより2人の長い長い年月があったからこその、その瞬間だと思うのだ。


祖父がよく私に言ってくれた、一番覚えている言葉がある。
祖父は私が帰省した時はいつも、別れ際に家の前まで見送りに出てきてくれ「がんばんなさいよ」と言いながら私の手を両手で包み、力強く握手をしてくれた。
「気をつけて」でも「またね」でもなく、いつも「がんばんなさいよ」と言った。しっかりやれよというような厳しい調子ではなく、にっこりと笑って、ワクワクするような口調でそう言いながら強く握った手をぶんぶんと上下に揺らした。

祖父の「がんばんなさいよ」には不思議な力がある。
絶対に大丈夫だから、おじいちゃんがついてるから、思いっきりやってごらんと言われているような、大きな安心感とパワーがあるのだ。


私は今でも、その「がんばんなさいよ」に背中を押されている気がする。
戦争を経験して、最初の奥さんが亡くなってしまって、それから祖母と再婚して、子どもが生まれて、孫ができて、定年してからもたくさん働いて、趣味もいっぱい楽しんで、病気になった妻の介護もして、いつだって全力で色々なことを楽しみ、そして頑張り抜いたであろう祖父。
そんな祖父からのエールほど、心強いものはない。

正直、連絡を受けた時は自分がボロボロのタイミングで、なんでこんな時にそんなにたたみかけるように悲しいことばかり起こるんだ、なんて思ったりもした。
でも多分、そうじゃない。
もしかすると祖父はボロボロだった私に、このタイミングだからこそ、最後の、最大の「がんばんなさいよ」を伝えるために私を呼んでくれたのかもしれない。
そう思えるくらい、東京に戻ってきた私は悲しみよりも前向きな気持ちをもらって帰ってきた。


私は今でも祖父の力強くて大きな手を覚えている。
そして心が折れそうになった時は、握手を交わしたあの手と、あの言葉を思い出すのだ。

これからも、どんなことがあっても、きっと大丈夫。
おじいちゃん、ありがとう。
私もおじいちゃんに負けないくらい、いっぱいいっぱいがんばるね。


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