みどりの日。 心地よい眩しさに葉が揺れる。 光の中で少しずつ色味を変えていく。
撮ることに意味があるのか意味があるのから撮るのか。 「写真に撮られたものはたいがい、写真に撮られたということで哀愁を帯びる」(スーザン・ソンタグ) 撮られたことで何かがわかる、あるいは意味が変わる時がある。 むしろ何の変哲もない風景に何がしかの意味があるように思えてくる。
言葉は感情そのものではない。 アウトプット、表現手段の一つである。 だから言葉だけですべてを伝えきれるわけではない。 得てして言葉は過剰になるが、伝えたい内容が伴っているとは限らない。 すると言葉以外で感情を伝える手段が大きな意味を帯びてくる。 たとえばメディアとしての写真。
概念としての阪急沿線は拡張し続ける。 「場」というのは「個」を表現できることに意義がある。 個性や価値観を通して編集された居心地の良さや存在感。 それはリアルな空間だけでなく、オンライン上に作ることも可能である。 たとえば実際の写真展の副音声としてメディア空間。
今年も何かしらの成功はあったはずだ。 ポジティブなできごともあったはずだ。 確かに今年は重苦しさや不透明も長かった。 それでも思いがけない発見、何らかの手ごたえ、変化の予感… 新しい光が見えた心躍る瞬間を連ねていけば2021年の約束も見えてくるだろう。
その色を見て特定の風景、あるいは特定の時間を思い出す。 目の前を通り過ぎるそれが連想させるのか。 そうではない、想像と現実はもっと錯綜している。 風景や時間の記憶がまずそこにあり、目の前の風景に投影する。 回想がマルーンの中に溶け込んでいく。
写真という表現の意味、何を撮りどう見せるか。 今そこにあるものは二度と現れないというエフェメラルな存在。 あるいは撮らなければ写真にならないというひとつの呪いのようなもの。 写真は様々な要素から考えてこそ楽しい、というより様々な要素で考えないと何も撮っていないに同じ。
うつろい。 過ぎゆくことは振り返ることができないからこそ感情をかきたてるのか。 消えゆくものへの愛惜。 うつろいとはまた新しさである。 変わらないものはない、それはいつも見ている風景もまた同じである。 哀しいエフェメラルも美しいエフェメラルも。
写真とは揺らぎである。 撮られたものが固定されるわけではない。 心情を投影する目的としての写真。 時の揺らぎ、心の揺らぎ、写真の上に何を見出すか。
写真や言葉を置き続けること。 置いていく「それ」が正解かどうかはわからないが、「それ」を拾った誰か(あるいは未来の自分?)が新しい何かを見出すだろうか。 そんな約束と予感を置き続けていけば何かが起こるだろうか。
開け放たれた扉から何が通り抜けるだろう。 風の中に大切な人の思い出が溶け込んでいる。 沿線の空気は何でできているのだろう。 ふと光が差して行くべき道を示唆させる。 扉の向こうはまた別の時間が流れている。
写真とは一つの詩情であるが、詩はどこへ向かうのか。 過去を語ればそれは歴史であるから、詩はきっと未来を向いているのであろう。 だからこそ写真は過去であり未来でもある。 われわれは過去に思いを寄せる時もあれば、未来に恃むときもある。