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技術と哲学の融合

有効的な認知症ケアの技術体系はいくつかありますが、そのひとつにフランス発祥の「ユマニチュード」というものがあります。

この言葉は「人間(ヒューマン)」と「態度(アティチュード)」を掛け合わせた造語ですが、ケア内容の在り方をよく表しているなと感じています。

これまでもこのコラムにおいて繰り返し述べてまいりましたが、介護サービスの提供において求められるものは、

① お客様の状態の回復か、
② それが難しければせめて今ある状態の維持か、
③ いずれも厳しいような状況においてもひとりの人間として最期まで寄り添い向き合う

参考:あおいけあ 加藤忠相社長

という以上の三点になります。

そして、①と②の結果を求めるのであれば、当然やっていかないといけないことはお客様の活動を促すことです。

なぜならば、私たちの身体の機能は動かさないと衰えていくからです。
これは老若男女関係なく、使われなくなった機能は急速に低下していきます。

ですから、お客様には活動をしていただかないといけないわけですが、ところがここで問題が生じます。

認知症というバイアスがかかった時に、この相手との意思の疎通が可能なのかどうかという問題に突き当たるわけです。

まず最初にお手上げ状態になるのは、おそらくは一番身近にいるご家族からだと思います。

今まで知っているパートナーではない、今まで知っている親の様子ではない、という違和感や戸惑いから、これまでの向き合い方を変えてしまいます。

身近な存在としてのこれまでの関わり方を、「認知症の人」への関わり方へと変えてしまうことで壁を作ってしまうといってもいいでしょう。

そして、ここも肝心なところですが、認知症になったからといって何もかもが分からなくなっているわけではありません。戸惑っているのは、周囲の人以上にむしろご本人の方なわけです。

にもかかわらず、かつてのような関わり方では手を差し伸べてくれなくなった周囲の人たちに対しては警戒心が強まりますし、疎外感も感じることでしょう。

記憶の障害はあれども、認知症状の低下に困っているだけのひとりの人間です。だからこそ感情面ではより敏感に繊細になっていきます。

これが、果たして「ひとりの人間」として寄り添ったり向き合ったりしているかという介護職に求められている③の要素となります。

相手の置かれた立場に理解のない人がその人に向き合うとどうなるか。

例えば認知症になると視野が狭まるといいます。ちょうど自分の両手で双眼鏡の形を作って目の前に当ててみた感じでしょうか。

手で作った筒の先の光景がわずかに見えるような状況です。

にもかかわらず、その相手の視野に入ることなく声をかけて、聞こえていない相手の反応を確かめることもなく、ケアの実施を進めてしまうとどうなるか。

そもそもケアというのは、「相手を気にかけること」という意味なはずですが、そこには相手への配慮などは欠片もありません。

例えばそうした状態で、お風呂に入っていただいてシャワーをかけるとどうなるか。

「ギャー、何をするんだ」とお客様は当然驚かれて暴れられることでしょう。

意思の確認もできていない上に、見えないところから突然熱いお湯を浴びせられたのと同じことです。

しかし、相手の置かれた状況を理解していないご家族やスタッフがどう感じるのかというと、「ああ、この人はシャワーが嫌いなんだな」という解釈です。

そして、ここでの行為で与えてしまった嫌な印象や感情というのはしっかりと認知症当事者の記憶に刻まれますので、その後は嫌な思いをさせた対象を見るたびに警戒モードに入られてしまいます。

認知症というバイアスを取っ払って考えてみると、人間というのは自分に害をなす人とは関わりたくないものです。

人が好んで活動するのは、好きなことをする時と、好きな相手に頼まれたことをする時です。

お客様に沢山活動をしていただいてお元気になっていただくためには、

  • 相手の好きなことを知り、

  • 相手に好まれる存在になるような関わり方をすることです。

向き合う中で、その二つの要素がある時に、お客様はこちらの頼みごとに対して活動してくださり、その活動量が結果的に機能の回復や維持につながっていくのです。

その思想と技術体系をまとめたものがユマニチュードやその他の認知症ケア技術なのです。

求められるのは小手先のテクニックだけではなく、相手への関心や思いやりがあってこそなのだと捉えています。

今日も読んでくださいまして、ありがとうございます。

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