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ラバーズ・オータム

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甘い、苦い、切ない。 まるでコーヒーやウィスキーのように微妙で不安定な恋人たち。
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#小説

章 「ん」

千章(ちあき)は左向きに眠る。左肩を下にして左耳を枕にぎゅうっと押し付けて、膝を折り曲げてひらがなの「ん」みたいになり、手を脇の間に挟んで眠る。それがベストなのだ。それがベストだということに気づいたのは、千章が高校生の時で、インターハイ予選前日の眠られない夜に、なんとか見つけた眠ることのできる体制だった。それから彼女は毎日その「ん」ポーズで眠ったし、素敵な夢を見ることもあった。例えば、目がさめると

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エラーキャンセル

 チカは店に入るやいなや、大きなあくびを一つして赤いマフラーの結び目を前に持って来て、解いた。わあー、あったかい。

「今日は、冷えますね。夜、遅かったんですか? 」

と、Barケイの常連であるシンジが尋ねる。彼はどす黒いビールを飲んでいて、いつもチカはその黒いクラフトビールをよく飲めたものだと思っていた。アフターダーク。

「動画、見てたら眠れなくなっちゃって」
「動画? 」
「はい、MLBの

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ザクロ色のなみだ

 オリオン座が光る、香織と拓磨は狭い六畳間でカップラーメンが出来上がるのを待っていた。オリオン座、見えないかなあと拓磨は言ってベランダに出ると、香織の座っているソファは急に温もりを失って星屑が入ってこようとするのをモスグリーンの遮光カーテンが遮った。
 今、何時かな? とベランダから帰って来た拓磨に香織が問うけれども返答はなくて、ただ、曇っていて星なんて見えなかった、と拓磨は落ち込み、ピピピとスマ

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メリット

「シャンプーないよー? 」
私の恋人はそういう男だった。私の恋人だった男はそういう種類の人間だった。

「エクレア食べたいな」
僕の恋人はそういう女だった。僕の恋人だった女はそういう種類の人間だった。

だから、
シャンプーが切れかかった時
ケーキ屋のショーケースにエクレアを見かけた時

私は
僕は

もう一度あなたのことを思う。それから、それくらいのものは買って帰ればよかったと思う。
あの日、私

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幸せのパンケーキ♡

 「まだマフラーには早いだろ、」と僕はミカと落ち合ってそう言う風に言う。「今日二十度あるらしいぞ」現に、彼女はもうマフラーをほどき始めた。

「朝は寒かったの! 去年はこれ、可愛いって言ってくれたよ!」
とイヤミらしくもない明るい口調でミカはムッとする。失敗したなあと僕は思う。出会って最初に服を褒めるなんていうのは、当たり前のことではないか?それは太陽が回るというコペルニクス的転回が再び起こっ

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ラブリー

 環状七号線を走りながら、助手席に目をやると瑞果(みずか)はまだ眠っていた。僕は、彼女の好きな小沢健二の流れるカー・ステレオのボリュームを下げて、赤信号でゆっくりと停車する。

あなたの育った街が見たいーー

瑞果が今朝そう言ったので、今日は急に友人に車を借りて三時間の長いドライブに出かけた。僕の田舎は福島県の真ん中あたり山がちなところにあって、温泉街が有名だ。そこに両親が住んでいるわけでもないの

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イタリア・ブレンド・コーヒー

 あ、もう缶コーヒーがホットなんだな。

 良太がベージュのコートに手を突っ込みながら、私たちの町を半永久的に照らす自販機を見つめてそう言った。「あったか〜い」の「〜」のおかしさについて私たちは三十分近くも笑っていた。あの頃、私たちは幸せだった。二人きりのババ抜きや、コンビニの安いおでんや、ディズニーツムツムでハートを送りあっていたあの日々は、とても幸せだった。冬が始まろうとしていた。

 金木犀

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