イタリア・ブレンド・コーヒー
あ、もう缶コーヒーがホットなんだな。
良太がベージュのコートに手を突っ込みながら、私たちの町を半永久的に照らす自販機を見つめてそう言った。「あったか〜い」の「〜」のおかしさについて私たちは三十分近くも笑っていた。あの頃、私たちは幸せだった。二人きりのババ抜きや、コンビニの安いおでんや、ディズニーツムツムでハートを送りあっていたあの日々は、とても幸せだった。冬が始まろうとしていた。
金木犀と銀杏の季節がさらりといなくなって、昔東京で見たあの黒や銀色の川を思い出しながら、私は良太の十センチ後ろを歩く。手が時々ぶつかるのに、もう彼が私と手を繋ぐことはないし、またね、とキスしてくれることもない。
今日は久しぶりに外で食べようか、と私を誘い出して駅前から少し外れた小さな居酒屋で二人で過ごした。久しぶりのデートで私はウキウキしていたし、金色の小さな丸いイヤリングと良太にもらったパールピンクの指輪を小指にはめて、久しぶりに鏡の前で小一時間もかけた。初デートみたいだ。私は思って、いつもよりたくさん髪も梳かし、高い香水をうなじに吹きかけた。
生、二つ。あ、それから注文一緒にいいですか? お刺身五点盛り、馬刺し、ポテサラ、あとー、
と、良太が私を目配せする、あと、何か好きなの頼みな? と言ってくれたあの頃を思い出すし、言わなくてもわかるようになったことが嬉しい。
「チャンジャ、タコワサ、もろきゅう」
私が言うと、良太はにこりとして、今日は日本酒の気分ですか。と言う。
とりあえず、それで。
ビールが来るまでの三分間、私はこの時間が苦手だ。これから酔って何か大切なことも話しやすくなるのに、今話すとこれからの時間が一瞬で壊れてしまう。何を話そう。と、私はいつも思う。
あ、その指輪、去年の誕生日にあげたやつ?
そうだよ、そうだよ。去年の誕生日も二人でこうやってご飯食べたよね。もう少し高級なイタリアンだったけど、二人で緊張してたよね。これくらいの居酒屋が、私たちにはちょうどいい。今日、良太はどうして私を連れ出したのだろう。
良太がちょうどいい甘くて飲みやすい日本酒を選らんでくれる。良太が二杯飲むのに合わせて私はお猪口を一杯飲む。なのに私の顔はトイレに立つたびにゆでダコみたいに赤くなっていって、良太はいつもと変わらない。
そろそろ、行きますか。
え。じゃあ、もう一軒いけるのかな。まだ九時だった。この町は電車なんてほとんど走ってないし、そもそも私たちの家はすぐそこにあるから終電を気にして早く帰る必要はない。あの頃とは違うのだ。
「このあとどっか飲み行くのー? 」
あ、もう缶コーヒーがホットなんだな。
良太、今年の私の誕生日、昨日なんだよ。去年のプレゼントまで持って来たのに、どうして忘れているの。寒さで酔いが冷める。すうっと顔から熱が抜けて行くのを感じて、その熱の抜け方に私は良太を思ってゾッとする。
「ねえ、私の誕生日……」
俺たち、終わりにしよう。ごめん。
金木犀の甘ったるい香りが冷たい風に乗ってやってきた。冬が始まることに気づいていないみたいに。その香りは多分、世界中で私にしか届いていなかった。
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