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60年代末青春グラフィティ ひかりみちるしじま

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闘争と青春の記憶(エッセイ)
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ひかりみちるしじま(1)

ひかりみちるしじま(1)

 あの時代のこと、喪った時間は、陽光にさらされた雪像のように細部が曖昧になり、やがて溶けるように忘れていく。毎日毎日、雪溶け水が流れていくように思い出はどこかへ流れていく。でも、人間は思い出をなくしたら生きていけない。だから、消えていく記憶を無意識のうちに想像で補って新しい思い出が作られていく。どこまでが心と頭と身体のどこかに蓄えられた真正の思い出で、どこからが後から作り上げた第二の思い出なのか、

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ひかりみちるしじま(2)

ひかりみちるしじま(2)

 1967年4月、丸刈りの坊主頭で私は大学の入学式に出席した。私が通った広島県の地方都市の高校では男子は丸坊主が校則だった。入学式のことは何一つ覚えていない。ただ、その日私たち入学生に向けて手持ちのハンドスピーカーで、ベトナム戦争への日本政府の加担を批判する演説をしていた学生が時々した長髪をかき分ける仕草が、とても気になったことだけを覚えている。
 
 私が育った地方都市には地下街というものがなか

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ひかりみちるしじま(3)

ひかりみちるしじま(3)

 1967年10月8日に続いて、11月12日にも羽田で大規模な学生デモがあった。今度は佐藤首相の「訪米阻止闘争」だった。
 佐藤首相の訪ベトナム、訪米により、日本のベトナム戦争への加担、米国支援が国内外に鮮明に示された。学生たちのベトナム反戦運動は、日本政府の米国加担政策に反対する運動として全国に広がっていった。
 そしてデモのスタイルもこの二度の羽田デモを通じて変わっていった。素手のデモも続いた

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ひかりみちるしじま(4)

ひかりみちるしじま(4)

 1月19日の夜遅く、福岡の警察署から釈放されたのは私ともう一人の二人だけだった。同じ時に逮捕されたのは三人だったが、一人は起訴されてさらに勾留が続いた。(起訴されたが、のちに警察の過剰警備があったとされ無罪になった。)
 手錠を外してくれた警察官が「もうデモは終わったから、君らも早く帰りなさい」と言ったが、とりあえず拠点の九州大学の寮に行ってみた。すると、警察官の言ったことが真っ赤な嘘であること

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ひかりみちるしじま(5)

ひかりみちるしじま(5)

 1968年は世界中で、新しい学生運動が燃えあがった。それまで政治には興味のなかった人たちも参加したくなるような運動が、アメリカや西ヨーロッパの国々にも、ソビエト連邦(今のロシアを含め中央アジアから東ヨーロッパに広大な領土を持っていた社会主義国)に影響を受けて社会主義を選んだ東ヨーロッパの国々にも、広がった。学生たちは自分たちの国の仕組みやあり方を激しく批判した。

 アメリカではベトナム反戦運動

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ひかりみちるしじま(6)

ひかりみちるしじま(6)

 1968年の3月から4月にかけて何度か「王子野戦病院闘争」にも参加した。東京の住宅街である王子に地元住民の反対の声を無視して、米軍は、ベトナム戦争で負傷したアメリカ兵を治療するための野戦病院を開いた。その撤去に向けて、3月、4月と激しいデモが行われ、私も参加した。「三里塚闘争」とセットで、千葉県の農村地帯と、東京都の市街地を行ったり来たり、荒れるデモを連戦した記憶がある。
 王子でも、佐世保と同

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ひかりみちるしじま(7)

ひかりみちるしじま(7)

 1968年4月のいつの日だったか、京都の山寺で私が所属していた学生運動の党派が、関西の学生を集めて泊まりがけの会合を持った。前年、67年の10月8日以降、激しい街頭デモが続いていた頃のことで、政治的あるいは社会的な課題をめぐって、これまでの運動の成果とこれからの運動の方向や戦い方を確認する、というのがテーマだったように思う。

 その日は確か週末だった。理由はもう覚えていないが、私は一人だけ遅れ

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ひかりみちるしじま(8)

ひかりみちるしじま(8)

 1968年には、ベトナム戦争が激化して、日本国内の米軍基地の拡張計画や、日本政府の米軍支援が次々と発表された。その一方で、日本政府の米軍支援に反対する声も大きくなり、反戦運動が盛り上がった。米軍によるベトナムでの戦争継続に反対し、日本政府の米軍支援に反対する運動が全国に広がったのだ。

 私は日本各地での反戦闘争に参加した。日本中をデモして回った1年だったような記憶がある。1月は長崎県の佐世保、

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ひかりみちるしじま(9)

ひかりみちるしじま(9)

 1968年12月、実家に帰省した。その年の夏は帰省しなかったので1年ぶりだった。私が学生運動をしていることは、すでに両親にバレていた。二度逮捕されたことで、公安関係の要注意人物として地元警察にもマークされることになっており、地元警察から私の帰省を問い合わせてきて、私の大阪での生活ぶりを両親が知ることになったようだった。

 もっぱら母が警察の問い合わせに対応し、私に学生運動をやめるよう手紙を書い

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ひかりみちるしじま(10)

ひかりみちるしじま(10)

 1968年は街頭でのベトナム反戦デモと並行して、大学内でも「生協闘争」と呼ばれた争いがあった。

 大学の生活協同組合(生協)が学生向けの学内食堂や書店を運営しており、生協の理事は大学教職員と学生自治会の代表によって構成されていた。
 生協に私が所属していた学生運動の党派のリーダーが現場の労働者として採用された。彼はこの大学にその党派の支部を作った人だった。学生自治会の執行部は別の党派が握ってい

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ひかりみちるしじま(11)

ひかりみちるしじま(11)

 戦前・戦中に戦争を防ぐための拠点たりえず、学生の身分のまま戦場に追いやった「学徒動員」の歴史を反省して、大学は戦後、「平和と民主主義の砦」として生まれ変わった、と私たちは教えられていた。
 しかし、それは虚妄の言葉だった。ベトナム戦争への日本政府の加担を大学関係者は手をこまねいて見ているだけだった。むしろ反戦運動をする学生を処分したりした。そうした処分などに対して、学生たちは大学当局(理事会、教

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「ひかりみちるしじま」(12)

「ひかりみちるしじま」(12)

 食事中も排便中も、常に監視されている独房生活は、半年近く続いた。四六時中監視され、行動の自由を奪いつくされた生活は、それまで思うがまま自由勝手に生きてきた私にはとてつもなく不快で苦痛だった。一時は、長期に自由を奪われた生活が続けば、自分は死んでしまうだろうとまで思いつめた。勿論、死にはしなかった。死んでしまうかもしれないと考えたことが、拘禁状態が続いたことによる精神的な錯乱だったのだ。
 やっと

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「ひかりみちるしじま」(13)

「ひかりみちるしじま」(13)

 1969年の12月に開かれた第1回の裁判は、傍聴に来ていた学生たちがヘルメットをかぶっていたため、「ヘルメットを取りなさい」という裁判官の命令と、学生たちの「これは我々の闘う意志の象徴だ」との主張が争って騒然となった。怒号のとびかう法廷を廷吏が走り回り、結局裁判は開かれることなく「休廷」が宣言された。
 1970年から実質的な裁判が始まった。その頃の「公判雑記」と題したメモがある。自分の中に浮か

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「ひかりみちるしじま」(14)

「ひかりみちるしじま」(14)

 1970年2月酷寒の頃、母が私の安アパートにやってきた。
 1968年の1月にカソリック教会が運営するアパートを追い出されて以来、2年ばかりの間に何度も住むところを変わった。この時のアパートが何度目のところだったかはもう思い出せない。

 逮捕状が出たという情報で、急いで引っ越したこともあるし、深夜に他の学生運動党派に殴り込まれて、家主から出てくれと言われたこともある。三度目に引っ越した時に、ほ

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