見出し画像

ひかりみちるしじま(6)


 1968年の3月から4月にかけて何度か「王子野戦病院闘争」にも参加した。東京の住宅街である王子に地元住民の反対の声を無視して、米軍は、ベトナム戦争で負傷したアメリカ兵を治療するための野戦病院を開いた。その撤去に向けて、3月、4月と激しいデモが行われ、私も参加した。「三里塚闘争」とセットで、千葉県の農村地帯と、東京都の市街地を行ったり来たり、荒れるデモを連戦した記憶がある。
 王子でも、佐世保と同様に、デモ隊の周りを大勢の地域住民が取り囲んで、見物していた。倒れた学生への警察官の目に余る暴行を見咎めて、学生たちを助けようとした人も多かった。

 私も機動隊に蹴散らされバラバラになって逃げている時、道路の端に二列になっていた住民らしき人たちから「こっちこっち」と叫ぶように呼び寄せられた。彼ら何人かに体を覆い隠されたところへ、数名の機動隊員が足音荒くやってきて、「学生を出しなさい」、と大声を出した。
 私が脱いだヘルメットを被ろうとすると、私を抱き止めるようにして「じっとして、大丈夫、黙ってなさい」隣の中年女性が小声で言った。機動隊員は、私が住民たちに囲われていることに気づいているようだったが、住民たちはスクラムを組んで機動隊員に「学生なんかいないよ」「学生より野戦病院の方がよっぽど危険だ」「そうよ、野戦病院にどいて欲しいのは地元のみんなの意志です」と詰め寄った。すぐにバタバタと足音と叫び声がして機動隊員たちは離れていった。 

「ありがとうございました」機動隊員のところに出て行こうとするのを止めてくれた女性に、私は礼を言った。自分の母親と同じぐらいの年かっこうの人で、優しい眼をしていた。
「だめよ、捕まっちゃあ、お母さんが悲しむわ」
 女性はまっすぐに私を見つめて、にこりと笑顔になり、「よかったわ」とほっとしたように言った。

 荒れるデモにでる前は、今日は捕まるかもしれない、といつも不安になった。その不安を周りに気づかれないように注意した。そして、デモが終わってなんとか無事に(といっても逮捕されなかっただけで、怪我をすることも多かったが)帰ると、仲間たちとデモの有様を面白おかしく話し合った。自分が臆病な奴なのか、意外と肝のすわった奴なのか、自分でもよくわからなかった。

 王子ではもう一度ハラハラ緊張したことがあった。同じ日のことだったか、別の日のデモでだったか、今ではよくわからない。
 やはり、機動隊の隊列にヘルメットと角材で突っ込み、隊列を突き崩すことができないで、逆に突出してきた機動隊員から全力疾走で逃げた。なんとか振り切って、デモ現場から数百メートル離れた住宅街にたどり着いた。もう大丈夫だろうと歩き始めた時、同じ色のヘルメットを被った男と出会った。
「今日のデモはもう終わってるよ。駅まで一緒に行こう」その男から声をかけてきて、「駅の場所わかりますか?」と私が聞いた。男は頷いて「俺は東京だからね。君は関西ですか」「大阪です」といった会話をしながら歩いた。
 周りに人影はなく、静かな早春の午後だった。すっかり緊張は抜け、どうでもいい雑談をしながら角を曲がった。

 目の前に制服の警察官が二名いた。近隣の交番からも警察官がデモの周辺警備に動員されていると聞いていた。お見合い状態で向き合ってしまったのだ。私はその日ろくに使わなかった角材を左手に持っていた。警察官は拳銃を腰に下げていた。
「角材を捨てなさい」三十歳ぐらいの警察官がガチガチに緊張した声で言った。
「なんてついてない日なんや。どないなっとんねん」心の中で悪態をつきながら、連れを見た。彼は角材を持っていなかった。苦笑いと緊張が混じったような妙な表情で私を見た。
「やるか」私は角材を両手に持ち直して、頭の上に振りかざした。声は出たが、臍のあたりに力は入ってこなかった。連れは私の反応に少し驚いたようだった。
「撃つぞ」耳障りな声だった。私より少し年上に見えるもう一人の警察官が、あわてて拳銃を引き抜いた。銃口を私たちの方に向けたまま一歩後退った。

 角材と拳銃を向け合ったまま、どれぐらいの時間が経ったのかわからない。おそらくほんの数秒だったろう。気がついた時には、私と連れは思いっきり回れ右をして、警察官に背を向け全力で走りだした。撃たれるかと怖がっている余裕はなかった。銃声も叫び声もしなかった。聞こえるのは自分たちの足音と激しい呼吸音だけだった。次の瞬間、連れが私の背を叩いた。後方を指さした。

 私はスピードを緩めて首だけ振り向いた。十メートルほど向こうを走る警察官二人の背中が見えた。合図をしたわけでもないのに、どうやら4人が同時に逃げ出していたようだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?