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ひかりみちるしじま(11)

 戦前・戦中に戦争を防ぐための拠点たりえず、学生の身分のまま戦場に追いやった「学徒動員」の歴史を反省して、大学は戦後、「平和と民主主義の砦」として生まれ変わった、と私たちは教えられていた。
 しかし、それは虚妄の言葉だった。ベトナム戦争への日本政府の加担を大学関係者は手をこまねいて見ているだけだった。むしろ反戦運動をする学生を処分したりした。そうした処分などに対して、学生たちは大学当局(理事会、教授会)との対話を求めた。
 当時、それは「大衆団交」と呼ばれた。1人では立場の弱い学生が、学生集団としてまとまって対話することを求めたのだ。その話し合いの場では学生も教授も大学の職員も平等に発言の機会が与えられる。しかし、教授会や理事会が応じることはなかった。学生の声を無視して、大学は何の変革も自らしようとはせず、学生の声や、さまざまな問題には頰被りしたまま、授業が続けられた。
 1968年から1969年にかけて、「大学闘争」が全国の大学に拡がった。授業など目の前のことを予定通りこなすより、大学そのもののあり方を議論し、戦後大学の理念を再構築することを優先すべきだと主張する学生たちは、大学校舎を占拠し、机を積み上げたバリケードで封鎖した。大学の機能を一時的に停止させて、議論を呼びかけたのだ。

 1969年に、学生からの大学当局に対する激しい異議申し立てがピークに達した。全国の多くの大学がバリケード封鎖されていた。
 私が在籍していた大学でも、「生協闘争」が発端となり、私を含む3名の学生に対する停学処分が全学的な「処分撤回闘争」を生みだし、学生の対話要求にまともに答えようとしない大学当局の姿勢に対して、大学校舎のバリケード封鎖が実行されていた。

 1969年1月東京大学に警察機動隊が導入された。大学当局が要請したのだ。機動隊は学生たちが封鎖していた校舎を放水車や装甲車を使った乱暴な実力行使で封鎖解除した。それまでは、「大学の自治」と言う考え方が大学への警察力の導入を控えさせていたが、それ以降、大学当局が警察に封鎖解除を要請することが当たり前になった。
 短期間の間に、全国あちこちの大学で、校舎に立て籠る学生と警察機動隊の暴力的な衝突が起こった。

 私の大学でも5月末に警察機動隊が導入され、校舎を封鎖占拠していた「全学闘争委員会」(以下 全闘委)の学生を排除した。私は全闘委のリーダーとして激しく機動隊に抵抗する学生たちの中にいた。
 大学の封鎖解除の行われた一週間後に御堂筋で行われたベトナム反戦デモで逮捕された。その日のデモは一度も荒れることのない静かなデモだったが、私には大学の事件で逮捕状が出ていた。6月から11月まで、私は生まれて初めての拘置所暮らしを経験した。

 何度目かの留置所暮らしが2週間で終わって、そのまま拘置所で半年近くを過ごした。そして、生まれて初めて起訴されて、私は被告人になった。
 初めての被告人体験は重苦しく私の心を縛ったが、そのことそのものよりも家との関係、なかんずく母との関係を、坂道で背負った大きな石塊のように感じていた。
 拘置所の独房の中で、私が一番恐れていたのが、母の嘆き、母の涙だった。私が子供の頃の母は、泣かない人だった。いつも弱みや泣き言を我慢して、表に出さないようにしていた人だった。
 拘置所の中で、私は安っぽいA5版サイズの大学ノートを買って、「獄中手記」と名付けて思いついたことを書いていた。まったく断片的なメモに過ぎないが、私の母への思いがこもっているところがぽつぽつとあって捨てられずに、母が死んだ2009年以後も、時々読み返したりしている。

<母が面会に来た。今日!ついさっきだ!俺の心には、面会室に入ったものかどうしたものかと立ちすくみ、俺が二度ほど頷きかけたのを見てようやく室に入って来た母が醜態を見せまいとして、席につくや否や涙をそっと拭った姿が、まざまざと焼きついている。>

<俺はもう長期勾留を覚悟していた。しかし、母を待つ間、俺の胸は大きく動悸していた。俺はほとんど母を、実の母の出現を恐れていた。これまで友人との面会の時は無慈悲に5分間の面会時間を厳守した看守が、今日に限って延ばしやがった。お前たちなんかに人間の心のデリカシーが判ってたまるか!とってつけたようなお涙ちょうだい劇を演じるなんざたくさんだ。俺は一分でも一秒でも早く母との空気から逃げ出したかったのだ。>

<朝の配食は、麦70%、米30%の飯と、得体の知れない出汁で煮しめてまったく具のない味噌汁と沢庵。残った味噌汁は独房の水道へ流し、食べ残しの飯が残るブリキの食器を返して、黄色く甘い沢庵を噛みしめていると、母の炊いた白米の旨さと歯触り、関西風の味噌汁の淡白で深い味わい、を思い出す。そして、浅漬けの白菜の美味。死ぬ前に食いたい最後の料理は、お袋の飯と味噌汁と白菜の漬物だ。あれこそ、この世の最高の美食であるかのように焦がれている>


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