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ひかりみちるしじま(4)


 1月19日の夜遅く、福岡の警察署から釈放されたのは私ともう一人の二人だけだった。同じ時に逮捕されたのは三人だったが、一人は起訴されてさらに勾留が続いた。(起訴されたが、のちに警察の過剰警備があったとされ無罪になった。)
 手錠を外してくれた警察官が「もうデモは終わったから、君らも早く帰りなさい」と言ったが、とりあえず拠点の九州大学の寮に行ってみた。すると、警察官の言ったことが真っ赤な嘘であることがわかった。現地デモで負傷した跡も痛々しい学生が大勢いた。さすがに疲れた顔をしていたが、精神的には高いテンションがその場の空気に満ちていた。
 エンタープライズ号は19日に佐世保港に入り、23日に出ていった。連日激しいデモが佐世保の米軍基地前で行われ、私も20日から参加した。
 デモには佐世保市民も参加したし、おにぎりや飲み物をカンパしてくれる人もたくさんいた。

 20日の基地前のデモでこんなことがあった。
 警察機動隊のピケットラインに学生のデモ隊が角材を手にぶつかった。何ヵ所かラインが崩れそうになったところはあったが、結局学生が弾き返された。そのあとは何人かが角材を手に散発的な突進をしたが、隊列をととのえた機動隊のラインを崩すことはできなかった。
 すると、学生の周りを囲むようにしてデモを見物していた人たちの間から何人もの若者が学生に近寄ってきた。私も二十代のガッチリした体格の男性に声をかけられた。
「おいもデモ」とか「だけん、そいば」とかよく意味のとれない言葉に戸惑っていると、彼は私が持っていた角材を指さして両手を合わせて拝むような仕草をした。角材を貸してくれと言っているのだと見当をつけて、差し出すとニコリとして頭を下げ、角材を持ったまま機動隊の列をめがけて走り出した。何度か機動隊のラインに突撃して角材をうちおろした。そんな飛び入りのデモ参加者人が何人もいた。

 何度かそんな攻防があった後、不意に機動隊の隊列が開いて、中から長い警棒を持った機動隊員がかたまって飛び出してきた。私の角材を手にした男性は危うく機動隊員と正面衝突しそうに見えた。思わず私は何か叫んだが、何を言っているのかわからなかった。「危ない」とか「逃げろ」とか叫んだのかもしれない。その瞬間、本当に目にも止まらぬスピードでその男性は回れ右をして、私のところまで駆け戻ってきた。機動隊員に追いかけられたまま。すぐそこに機動隊員が迫ってきていた。私も回れ右をし男性と競うように走って逃げた。途中何人もの学生を追い越し、後方の社会党系の市民デモの隊列まで走って逃げていった。気がつくと、機動隊員の姿はなく、私と男性が市民デモの参加者にとりかこまれていた。
「逃げ足速いねえ」私が言うと、ニヤリと笑って「おぬしも」と返した。

 激しいデモにその場で飛び入り参加してくる人がいることに初めて出くわした。理論や理屈ではなく、その場の情に心をうごかされて参加してくるのだ。人間の情がとっさの行動を左右する力を持っていることを、佐世保で知った。

 私の現地闘争への初参加は、生涯初めての逮捕で始まり、人間の情の力にも初めて触れた。思いがけないことが続いたが、最後も思いがけない幕切れとなった。
 1月23日の深夜に大阪のアパートに帰ったが、その翌日の朝、大家のスペイン人神父にたたき起こされた。私の白いヘルメットを手にして叫ぶように言った。
「あなた、これなんですかあ」私がまだ目が覚め切らず答えないでいると、ますます興奮して「なんですかあ」「なんですかあ」と繰り返している。
「永遠の不服従のシンボルや」そんなセリフが半睡状態の私の口から出た。

 完全に目が覚めてから思い返したときは、「キザなセリフ」と一人で照れたが、もう遅かった。その日のうちにアパートから追い出された。


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