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「ひかりみちるしじま」(14)


 1970年2月酷寒の頃、母が私の安アパートにやってきた。
 1968年の1月にカソリック教会が運営するアパートを追い出されて以来、2年ばかりの間に何度も住むところを変わった。この時のアパートが何度目のところだったかはもう思い出せない。

 逮捕状が出たという情報で、急いで引っ越したこともあるし、深夜に他の学生運動党派に殴り込まれて、家主から出てくれと言われたこともある。三度目に引っ越した時に、ほとんどの荷物、家財道具らしきものを処分した。本棚と数百冊の本のように実家に送ったものもあるし、売り捌いたものもあるし、捨ててしまったものもあった。残したのは必要最少限の衣類と、その時読みたい本、ノート、筆記用具類と、布団だけだった。
 布団袋一つだけを持っての引っ越しだった。布団袋の中に、当面必要な衣類と、読みたい本を10冊ばかり挟み込み、ノートと筆記用具を突っ込んだショルダーバッグを肩に下げて、タクシーで引っ越した。10分もあれば引っ越し準備はできた。

 母がなんの予告もなく突然訪ねてきた時住んでいたアパートは、前の年の11月に拘置所を出て2週間ほど居候させてもらった友人の手引きで入居した。大学街の外れにあって、すぐ隣を水量の少ない小川がゆっくりと流れていた。2階の端にある4畳半一間の狭い部屋だった。取り柄は、人通りの少ない地域なので怪しい人影を発見しやすいことと、もし何者かに踏み込まれても、窓から下の小川に飛び降りれば、逃げやすいということだった。

「お父さんは、貴方が転向しないのなら、もう送金をしないと言っています。お父さんは家の仕事がどんなに大変な時でも、あなたの依頼にはいつも黙って答えていました。でも、今度の裁判でお父さんの我慢も限界なのです。お父さんの手紙に、いつものことながら、貴方が何の返事もよこさないから、こうして私が来たのです」と母は妙に几帳面で堅苦しい話し方をした。帰省した私に話しかける時の彼女は決してそんな話し方はしないが、私はその話し方に違和感を感じなかった。私が学生運動を始めて以来、彼女が私に書いてくる手紙の文体だったからだ。

 母に会うのは拘置所に面会に来てくれた1969年の6月以来だった。
「金はいいよ。もう頼まない」私は自分の声に苛立ちが混じらぬよう気を付けて言った。
「貴方はいつも、私たちに政治思想の話をしても仕方がないといった態度だけど、その傲慢な姿勢が、貴方の思想というのが人の言葉の受け売りに過ぎないと私に感じさせます。自分の言葉で話しなさい、どんな難しい問題について話す時でも。そして、お父さんや私みたいに貴方の考えに必ずしも賛成しない人の話をよく聞きなさい。相手を説得しようと思わないで、心を通じ合わせようと思って話しなさい。人間的な感性をひからびさせないでほしいと、・・・願います」

 母が何しに来たのか、私にはわからなかった。私の薄っぺらなところを暴き立てることが目的なら、手紙で済んだはずだった。現に、私を批判する話に私が反論しないで黙り込んでいると、母は困ったように話をやめた。
 駅前の食堂に行って、親子丼を二つ注文した。
「かしわと卵はええ味ついてて美味しいけど、ご飯の炊き加減がちょっと私には柔らかすぎたわ。でも、ありがとう、あんたに奢ってもらったの、これが初めてやなあ」
 母は、いつもの話し方に戻ってほっとしたように笑った。

 部屋に帰ると、母はもう私への説教は忘れたかのように、横座りに座って窓の下の小川に目を向けていた。
「どないかしたんか?急に来たからびっくりしたわ」と、私が言うと驚いたように振り向いた。困ったような笑いを浮かべて私を見つめていたが、待っていると柔らかく話しだした。
「あのねえ、お父さんももう55よ。ええ年やろ。私も45、立派な中年のおばちゃんや。あんたに何か期待して気持ちの負担かけるのは嫌やけど、最近な、なんか不安で不安でたまらなくなることがあるのよ。それで時々、私がヒステリー起こして、お父さんが黙り込んでしまうことあるの。自分で言うた後で、その言葉に自分が一番傷ついてるんよ。お父さんにも悪かったなて思って。昨日もやってしもたの。それでな、ちょっと冷却期間置こうと思ってあんたんとこに来たんよ」

 その夜は遅くまで、うつらうつらしながら母の話を聞いていた。私のたった一つの布団は母に提供し、私は服を着たままで毛布にくるまっていた。やがて、母の静かな寝息が聞こえてきた。この人が、「わたし」の原初の言葉、「わたし」をつきつめた果ての言葉なのかもしれない、と思った。


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