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ひかりみちるしじま(2)


 1967年4月、丸刈りの坊主頭で私は大学の入学式に出席した。私が通った広島県の地方都市の高校では男子は丸坊主が校則だった。入学式のことは何一つ覚えていない。ただ、その日私たち入学生に向けて手持ちのハンドスピーカーで、ベトナム戦争への日本政府の加担を批判する演説をしていた学生が時々した長髪をかき分ける仕草が、とても気になったことだけを覚えている。
 
 私が育った地方都市には地下街というものがなかった。大阪に住むようになって私がよく通った場所が大阪駅前の地下街だった。時には大学のキャンパスに通った回数より多かったかもしれない。飲食店や本屋や衣料品店を始めありとあらゆる種類の店舗が、クネクネ続く地下街に大小新旧入り混ぜて秩序なく並んでいた。いつも人で溢れ、いかにも大阪らしい混雑と無秩序が支配している地下街は、私に自由を感じさせてくれる場所だった。なんの当てもなく行き当たりばったりに地下街を歩き回るのが、私の最も好きな時間だった。
 大学でできた女友達をデートに誘う時も、もっぱら行く先は地下街だったが、おおむね地下街デートは、どの女性からもあまり支持されなかった。

地下街で、特によく行ったのが、何軒かの古本屋だった。本はもっぱら古本屋で買った。マルクス主義関連の本や戦後の学生運動に関する本は、大江健三郎をはじめとした現代作家の小説と並んでよく買った。
「いま、ここ」を、自分の生きる現在をもっとよく知りたいという本能的な欲求があった。それが古本屋によく出かけた理由だった。高校時代の太宰治への耽読の延長線上で、大江健三郎や三島由紀夫など当時の流行作家の小説を次から次への読みついだ。学生運動家の手記や日記のような本もよく読んだ。1960年の日米安保条約の改定に反対する「60年安保闘争」や、1965年の日韓条約批准に反対する「日韓闘争」などの過程で、闘いや恋に悩み、迷い、苦しんだ若者たちの手記や日記が出版されていたのだ。

 私が大学に入った1967年以降の数年は、学生のベトナム反戦運動や大学闘争が大きく盛り上がった。「60年安保闘争」以来の学生運動高揚期に、たまたま大学に入学したのだ。
 1967年の佐藤栄作首相は、1960年の岸信介首相の実弟だった。岸信介は太平洋戦争中、満洲国の高官や日本政府の閣僚を歴任し、戦後はA級戦犯の被疑者として数年にわたり拘留されたが不起訴となり、公職追放が解除された1952年より政界復帰して首相まで昇りつめた。

 1967年10月8日、佐藤栄作首相の南ベトナム訪問に反対する激しいデモが羽田空港の周辺で行われた。空港に通じる三つの橋には警察機動隊が装甲車を配置してデモ隊の空港突入を阻止しようとしていた。その三つの橋の一つ弁天橋の上で山﨑博昭という京都大学一回生が死亡した。直後の警察発表では、学生が奪った装甲車による轢殺とされたが、その後の調査で頭部の脳内出血が死因であり、おそらくは警察官の警棒乱打によるものと推定されている。(「かつて10・8羽田闘争があった」山﨑博昭追悼50周年記念[記録資料編])

「おい、おい、羽田が大変なことになってるぞ」
 トランジスターラジオのイアホンを抜きながら緊張した声でクラスメートの一人が言った。羽田デモの実況中継を聞いていたのだ。
 この日、私は大阪の服部緑地にいた。神戸のお嬢様大学として知られる女子大の一年生十名と私の大学の男子クラスメート十名が合ハイをしていた。合ハイは合同ハイキングの略称で、男女の集団お見合いデートとでもいうものだった。
 全員の自己紹介が終わって、男女が数名ずつ入り混じった小グループに分かれて喋りはじめた時だった。イアホンの抜けたラジオからアナウンサーの甲高い声が聞こえてきた。
「服部緑地でもこれから大変なことが起こりまっせ」誰かが頓狂な声を上げた。その声に反応して女子の忍び笑いが起こった。
「違うって、冗談やない。羽田のデモがすごいことになってるんや。まあ聞けや」

 あの日、羽田で山﨑博昭が倒れた最後の瞬間、見たものは何だったか・・・その後あの日のことを思い出すたび考える。同じ時に、私は目の前の女子大生のよく動く唇を見ていた。話す言葉はほとんど聞いていなかった。唇がぬめぬめ動き、日の光を受けて輝いているのを見つめていた。

 それから少しして、私は生まれて初めてデモに参加した。


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