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「ひかりみちるしじま」(12)

 食事中も排便中も、常に監視されている独房生活は、半年近く続いた。四六時中監視され、行動の自由を奪いつくされた生活は、それまで思うがまま自由勝手に生きてきた私にはとてつもなく不快で苦痛だった。一時は、長期に自由を奪われた生活が続けば、自分は死んでしまうだろうとまで思いつめた。勿論、死にはしなかった。死んでしまうかもしれないと考えたことが、拘禁状態が続いたことによる精神的な錯乱だったのだ。
 やっと釈放されたのは11月初め頃、複数の罪名で起訴され、その第1回公判が12月に開かれることを知らされてからだった。

 私は起訴されて、裁判が始まるまでに、それまで所属していた学生運動組織を抜けていた。半世紀の時間が経った今となっては、当時の自分の考えや気持ちを正確に思い出すことができない。想像することができるだけだ。
 組織の方針や人間関係に違和感を感じていたのだが、そんなことよりも組織(われわれ)の一員としてではなく、自分自身(わたし)を主語に生きていこうと思ったからに違いない。
 あの時代に大学に入り、自分なりに考え、自分がなすべきだと選んだ行動の結果として私は被告人になっていた。他人の言葉や他人の責任ではなく、自分の言葉と自分の責任で裁判を闘おうと思ったのだ。

 裁判では大学への機動隊導入によって逮捕されることになった10数名の学生が「統一被告団」を組んだ。その中には私が抜けた学生運動組織のメンバーもいたが、彼らが一方的に裁判の方針を決めるということはなく、統一被告団の中で話し合って決めた。その話し合いを通じて、一人一人の被告が自分の考えを主張しながら、共に闘った大学闘争の意味を考えることができたと思う。 

 裁判は年に数回のゆっくりとしたペースで行われた。
 その一方で、大学の在り方や教育理念に対する反省も再考もなく、授業が再開され、教授中心の学内秩序が戻った。釈放されても、私は実家に帰らず、停学処分の期限がきて処分は解けていたが、再開された授業には出なかった。生活費を稼ぐアルバイトをしながら、次から次へと女性との親密な交際を重ねた。「政治の次は、性事かよ」と揶揄する声が聞こえたが、やめなかった。何も終わらず、何も始まらない、宙吊りの気分が続いていた。

 1969年の年末から、私は淀川流域の水門で夜間のアルバイトをしていた。
 水門から、周辺の工場に工業用水を供給していたが、水門の水の流れを阻害するゴミ掃除の仕事だった。昼間は正規の職員が水門の保全をしていた。正規職員のいない夜のあいだ水門脇のプレハブ小屋に詰めて、一定の時間ごとに水門を見回り、ゴミを駆除するのだ。同じ時期に、同じ学生運動組織から離れた数名の学生で交代にやっていた。

 正月3日間は職員が休みなので、24時間勤務だった。1日の午前9時から2日の午前9時までが私の担当だった。
 1日の夕方、プレハブ小屋に来客の約束があった。前年の年末に、ある居酒屋で知り合ったばかりの女性だった。大阪で一人暮らしの彼女は、正月の帰省をしないと言った。私が1人でアルバイト先に泊まると話すと、じゃあ、お節を持っていくと言ってくれた。婉曲に私が誘ったようなものだった。
 その人は予定通りにやってきたが、その直後に予定外の来客があった。その頃付き合っていた女性が、やはりお節料理を二段重ねになった紙製の重箱に詰めて持ってきてくれたのだ。
 2人の女性が鉢合わせをしてしまった。先に来た女性は、一瞬だけ鼻の頭に皺を寄せて私を睨んだが、「お先」と誰にともなく言うと、開いていなかったお節の風呂敷包みを持って帰った。

 残された2人は気まずく向き合ったが、私が何か言おうとするのを制するように、「じゃあ、私もお先」と言って私が付き合っていた女性も小屋を出ようとした。引き止めようとした私に思いっきり舌を突き出してから「お節は、置いていくから、どうぞお好きに」と言い残して出て行った。

 その日から数日して、付き合っていた女性から別れの手紙が来た。私を非難する言葉が書いてあったわけではなかったが、私は、手紙を読んで一層、何も終わらず、何も始まらない、宙吊りの刑罰を受けているような気分が強まった。


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