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ひかりみちるしじま(3)

 1967年10月8日に続いて、11月12日にも羽田で大規模な学生デモがあった。今度は佐藤首相の「訪米阻止闘争」だった。
 佐藤首相の訪ベトナム、訪米により、日本のベトナム戦争への加担、米国支援が国内外に鮮明に示された。学生たちのベトナム反戦運動は、日本政府の米国加担政策に反対する運動として全国に広がっていった。
 そしてデモのスタイルもこの二度の羽田デモを通じて変わっていった。素手のデモも続いたが、荒れるデモの時はヘルメットをかぶり、プラカードを持つのが定番のスタイルになった。プラカードは学生の身長ぐらいの角材に薄い板を打ちつけ、「〇〇反対」等のスローガンが書いてあった。後には最初から角材だけを持つようにもなった。ヘルメットは警棒等の打撃から頭を守り、プラカードは武装した警察機動隊と乱闘になったときの武器になった。

 1967年11月、アメリカ海軍の原子力空母「エンタープライス号」が爆撃機多数を積んだまま九州の佐世保港に寄港することを日本政府が許可した。
 寄港は1968年1月19日と決まった。これを許せば、日本が北ベトナム爆撃の出撃基地になってしまうとして、社会党、共産党はじめ労働組合や学生運動組織が寄港反対の現地デモを行うことになった。
 当時、問題の現地でデモすることを「現地闘争」と呼んだ。現地闘争はどこでも荒れるデモになり、怪我をする者も逮捕される者も多かった。
 私は1月16日、列車に鮨詰めの学生集団の一員として博多駅に着いた。東京や大阪からの学生たちが集団となって博多駅で下車した。福岡市内にある九州大学の寮が佐世保の現地デモに向かう拠点になっていたからだ。1967年10月8日以後に学生運動に参加した私は、大阪の御堂筋でよく行われた反戦デモに何度か参加したが、荒れるデモになることが予想される現地闘争に参加するのは、これが初めてだった。
 博多駅の内外に大勢の警官隊が集まって我々の到着を待ち受けていた。

「何やねん、何が始まるねん」
「何もしてない、列車で着いただけやないか」
「おい、押すなよ、何勝手に人の身体に触ってるねん」
 学生たちの怒声があちこちであがった。警官隊は2列縦隊になって、その間に学生たちを挟み押しつけた。身動きができず、左右からの圧迫で一団となって動かされ運ばれていった。私は学生集団の端っこにいた。つまり、警察官と直接身体を接する位置にいた。背中にはリュックを背負い、その中に一緒に来た学生数人の手荷物が入っていた。預かった学生の名前と連絡先を書いたメモも入っていたが、列車から降りた直後に念のため、メモはズボンの内側、パンツの股座(またぐら)のあたりにつっこんでいた。私は身体を押しつけてくる警察官にされるがままに逆らわないようにしていた。胃を圧迫されて苦しかったが、我慢できなくはなかった。

 私の内側から何本かの足が伸びた。外側の警察官を蹴ったらしい。その直後「タイホ、タイホ」と叫ぶ声が聞こえ、身近の警察官から身体のあちこちを小突き回され、襟首をつかまれて集団の外に引きずり出された。
 警察署に着いた時、トイレに行かせてくれと頼み、トイレの中でメモをちぎって飲みこんだ。ひどい気分だったが、「だいじょうぶ、お前はなすべきことをしている」と自分に言ってやりたい気がした。
 あの日、博多駅で逮捕されたのは私を入れて三人だった。
 私にとっては、初めての現地闘争参加が、初逮捕の日にもなった。他の二人は東京からの学生で、二人ともベテランの学生運動家のようだった。逮捕された者同士の会話は禁止されていたが、一人は平気で私に「黙秘してたら、すぐ出られるよ」話しかけてきた。私は、初めての現地闘争参加だということを黙っていた。自分もベテランらしく答えようとしたが、すぐに警察官に怒鳴られ会話を遮断された。

 逮捕されて四日目の19日の朝、さらに十日間の勾留要請の審査のために裁判所に連れて行かれた。裁判官は二十代後半にしか見えない美しい女性だった。当時東映のヤクザ映画によく出ていた女優にどことなく似ていると私は思った。「そんなこと言うてる場合とちゃうやろ」どこからか、もう一人の私の声が聞こえた。
 美人裁判官は最近東京から赴任したばかりだと言い、自分も学生時代に何度かデモに出たこともあると言った。そして、「これは取調べではなくて、あなたの勾留申請の当否を判断するためのものだから、名前とか年齢は教えてね」とおっとりした口調で優しく続けた。
 つい私は「完全黙秘の誓い」(自分で勝手に決めていたのだ)を破って、名前と生年月日を告げた。「何が誓いだよ」やはりもう一人の私の声が聞こえた。
 そして、逮捕された時の様子を話して自分に逮捕される理由がないと主張した。頷きながら聞いてくれた後で「ふうん、未成年だってわかってれば、逮捕の日に帰れたのにね」と何だか気の毒そうに言われた。

 その日の夜遅く釈放された。

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