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ひかりみちるしじま(7)

 1968年4月のいつの日だったか、京都の山寺で私が所属していた学生運動の党派が、関西の学生を集めて泊まりがけの会合を持った。前年、67年の10月8日以降、激しい街頭デモが続いていた頃のことで、政治的あるいは社会的な課題をめぐって、これまでの運動の成果とこれからの運動の方向や戦い方を確認する、というのがテーマだったように思う。

 その日は確か週末だった。理由はもう覚えていないが、私は一人だけ遅れて参加した。頂上付近に見える山寺の薄っすらとした灯りを目指して、真っ暗な山道を懐中電灯も持たないで登った。比較的広いくねくね蛇行する道を登って行くと、ある地点から急に車1台分の道幅になり何度か踏み外しそうになったが、幸い転落することはなかった。
 山寺に着くと、党派の幹部の演説が終わり、しばしの休憩に入ったところだった。休憩後は大学ごとに集まって、これまでの運動総括とこれからの運動方針について話し合うということだった。

「遅かったなあ。でも、正解かもしれん。ちょうど長話が終わったところやから」同じ大学のTがニコニコと近寄ってきた。
「ちゃんと時間を測ってきてるんや」私も笑って応えた。
「こらこら、聞こえたら怒られるぞ」1年先輩のYが笑いながら私の肩を軽く叩いた。
 その夜は結局、真夜中まで起きて相手構わず話した。自分たちの運動が何をなすべきかの話は、すぐにマルクスがどうとか、吉本隆明はどうとか、自分が今読んでいる本の話にずれていった。誰もが、自分の解釈しか信じない者のように話したが、どの解釈もそれほど違いがあるわけでも、画期的な視点があるわけでもなかった。

「あら、来てたの」
そんなダラダラした夜更かしにも飽きてきた頃に、柔らかい女の声がした。
「そう言うそっちこそ、来てたんや」
 Yも精一杯柔らかい声を出した。女はYの高校3年の時の同級生K子だった。その後は、K子も話に加わった。また吉本隆明の話をしたのはYだった。

「吉本隆明は60年安保のデモが崩れて、警官に追いかけられた時に、近くにあった塀を跳び越えて飛び込んだのが警視庁やったらしいで」
「吉本らしいエピソードやねえ。そんな普通のおじさんらしいところがええやないの。」K子が言った。
「吉本は『初期ノート』に<僕は常に孤立した少数者を信ずる>と書いてるけど、60年安保で全学連に肩入れしてどんくさく捕まったのも『初期ノート』の頃の感受性を持ち続けてたからやと思う」
 吉本隆明に肩入れするつもりで言ったが、言ってしまった直後にもう、気取ったことを、と恥ずかしくなった。K子は初めて私に気づいたように私を見た。

 それから1週間後に、K子は私のアパートを訪ねてきた。そのアパートはカソリック教会が経営していたアパートを追い出されて、すぐに見つけた。家賃の安さだけが取り柄のアパートで、私の部屋は2階建ての1階にあり、3畳一間の狭い部屋だった。
 家具と言えるものは部屋には不釣り合いに大きな本棚だけで、カソリック教会経営のアパートの時は各部屋に机とベッドが付帯していたので、机は持っていなかった。大学入学直後の下宿時代に使っていた折りたたみ式の座テーブルを必要に応じて使った。

 K子と私は座テーブルを挟んで座った。
「狭いね」私を見て笑いながらK子が言った。
「うん、で、何か飲む?」私も笑いながら言った。
 それから2時間ほどの間に、国産の安いウイスキーを二人で1本飲んでしまった。二人とも酔っぱらっていた。
 私のキスをK子は拒まなかったが、スカートの中に手を入れると、私の手首をスカートの上から握って「あれあるの」と言った。
「あるよ、ちょっと待って」そう言って、私は部屋を出て、2階に上がった。

 2階の一番奥の部屋をノックした。同じ学科の同級生で、このアパートを私に紹介してくれた男の部屋だった。高校時代から詩を書いており、私と同じように吉本隆明の初期の詩やエッセイを好んでいた。ドアを開けて部屋の主が顔を出した。
「悪い、コンドームあるか?」単刀直入に聞いた。
 主はしばらく押入れを開けたり閉めたりしていた。そして黙って私の手に包装紙に入ったコンドームを2個握らせた。
「すまん、今度きっと返す」私が言うと、「今度はないよ。女とのことでは。飲みすぎてないやろな」と言って唇だけで笑った。
 自分の部屋に戻ると、部屋のドアは開いたままで、女は消えていた。

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