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「ひかりみちるしじま」(13)

 1969年の12月に開かれた第1回の裁判は、傍聴に来ていた学生たちがヘルメットをかぶっていたため、「ヘルメットを取りなさい」という裁判官の命令と、学生たちの「これは我々の闘う意志の象徴だ」との主張が争って騒然となった。怒号のとびかう法廷を廷吏が走り回り、結局裁判は開かれることなく「休廷」が宣言された。
 1970年から実質的な裁判が始まった。その頃の「公判雑記」と題したメモがある。自分の中に浮かぶ言葉を、その時の気分で自由に文章にしたものだ。

<裁判で使われている言葉に慣れることがでけへん。自分のやったことを裁判の言葉で言われても、まるで他人事のようでピンとこなかったし。自分がなんで、何を目指してやったんか、やったことによって自分は、そして周りはどう変わったんか、話したいのはそういうことやのに。>

<だから、私は裁判を通じて大学闘争を継続することを考えた。法廷という法の言葉の支配する空間で、法の言葉ではなく、自分の言葉で、大学闘争の意味と意義を表現したかったから。自分を行為に導く深い理由を言い表す言葉を見つけたかった。本物の言葉、自分の言葉を。>

<正直、裁判は消耗や。裁判かかえてると、どうしたって不自由なことが多いし、世間に色々説明するのも面倒くさい。特にお袋から、まだか?どうなる?また入らなあかんのんか?てなことを暗く聞かれると気が滅入る。>

<生活のこと、両親のことを考えると、早く裁判が結審して自由にどこへでもいけるようになるのが一番だが、自分の言葉であの闘争の日々を総括できないうちは、裁判も終わって欲しくはない。これは言葉の闘いなのだ。奪われた言葉を取り戻さなくてはならない。>

<裁判のあった日はセックスがしたくなる。そんなに女好きでもなかったのに、頭も身体も性欲に支配されたバカな猿になってしまう。>

<裁判のあった日は、法の言葉への嫌悪で吐きそうになる。気持ち悪くてたまらなくなる。干からび、強ばった法の言葉の呪縛から逃れたくて、情痴とか肉欲とか色情とか、聞いただけで、字面を見ただけで、肉感的な情景が浮かぶ言葉を思い浮かべる。>

<三島由紀夫が、自衛隊の市ヶ谷駐屯地で割腹自殺する4年前1966年に、
「われら」からの遁走―私の文学、という不思議な文章を書いている。
 すでにその頃には三島は審美的な国粋主義者とみなされていた。その文章のはじめに戦争中から「われら」に感じていた違和感(『なんだか肌に馴染まぬ、不可解な言葉だった』)を書いている。そして、戦後20年がたって、『現在の「われら」はいやらしいが、過去の「われら」は美しかったという気がしはじめている。』と、違和感が変質してきたことを告白している。>

<また、『時代の非適格者たる自分を是認するための最後の隠れ家』が自分にとっての文学であったと書いている。そして、文学の本質も、文学が人間にもたらす本当の価値もよくわからなくなってきたが、『私は私が、森の鍛冶屋のように、楽天的でありつづけることを心から望む。』と結んでいる。>
 
<この文章を書いた2年後には、三島は「楯の会」という私兵組織を作り、4年後に、その楯の会のメンバー4人と共に市ヶ谷の自衛隊東部方面総監室に総監を人質にして籠城、総監室の正面バルコニーから、集まった自衛隊員に向けて演説をした後、隊員たちの罵声に背を向けて総監室に戻り、腹を切って死んだ。>

<戦争中に人が群れて「われら」という主語で語りはじめることの虚妄を嫌い、時代に同調しない自分の感受性「わたし」だけを信じて文学を生業にしてきた三島が、戦後20年経った頃から、感受性を語る言葉ではなく、行為で自己表現したくなったことを告白した文章なのだろうか?
三島は、生涯最後の作品「豊饒の海」四部作の最終原稿を渡した直後に市ヶ谷に、死出の旅に向かった。最後まで『楽天的』だったから、自衛隊も己の言葉も信じず、ただ己の肉体だけを信じた行為に賭けることができたのだろうか?>

<学生運動に熱中していた時も、裁判で自分の言葉を探す時にも、私は「われら」を心から信じることができない。そして「わたし」に相応しい言葉、「わたし」をつきつめた果ての言葉を求めている。
 1970年11月25日、三島は「わたし」の表現をつきつめた果てに死を選んだ。お前はどうするのだ、と自問したまま私は立ちつくしている。>


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