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ひかりみちるしじま(9)


 1968年12月、実家に帰省した。その年の夏は帰省しなかったので1年ぶりだった。私が学生運動をしていることは、すでに両親にバレていた。二度逮捕されたことで、公安関係の要注意人物として地元警察にもマークされることになっており、地元警察から私の帰省を問い合わせてきて、私の大阪での生活ぶりを両親が知ることになったようだった。

 もっぱら母が警察の問い合わせに対応し、私に学生運動をやめるよう手紙を書いてきた。それに対して、なぜ学生運動をするかは、帰省してゆっくりと話すと返事していたが、私がなかなか帰省しないので母は送金を止めると脅してきた。12月のクリスマス前に帰省することになった。

 帰宅した私を迎えると、母は何だか落ち着きのない様子で、しきりに時計を気にしていた。やがて理由がわかった。しばらくして地元の公安担当の刑事がやってきた。大阪で接していた公安担当の警察官とは随分印象が違う、目つきも口調もおっとりした中年男だった。その時のやりとりの詳細はもう覚えていないが、私のひどい言葉遣い(相手をお前呼ばわりするような)や、相手の発言にかぶさるような物言いに警察官が怒ってしまい、母に向かって「あんたのために来たのに、こぎゃあなことを言われる筋合いはない」とかなんとか、捨て台詞のようなことを言って帰っていった。

 どうやら母が警察官に、私がしばらく実家にいて学生運動から距離を取るように説得することを依頼したようだった。警察官が帰った後、母は私が学生運動をすることで、父の仕事や弟の小学校での交友関係にも悪い影響があると話しだした。説教するというより、言わないでおこうと思った愚痴でも言うように、ぽつりぽつり話した。

 父は地元の大手鉄鋼メーカーに銅や真鍮などの非鉄金属を納入する零細事業者だったが、私が学生運動をしていることで取引先から圧力を受けているなどと言って、私に学生運動をやめるよう説得することはなかった。
 そもそも父は、私が帰省していても、私と夕食を共にして話をすることもなく、夜遅く帰ってきては、ゆっくりと酒を飲んで、風呂に入るとすぐに寝てしまった。私を避けているわけではないが、積極的に私と話をしようともしなかった。
    
 実はそうした態度は私も一緒で、父を避けているわけではないが、父と話し合おうとはしなかった。母よりも父に、私の学生運動へののめり込みを説明したかったが、戦争中に職業軍人だった父にどう話していいかがわからなかった。いや、それよりも無口で一徹な父を説得する自信がなかったのかもしれない。

 母には、私がなぜ学生運動をするのかを何度か話そうと試みたが、母はいつも私の話を最後まで聞かなかった。ベトナム戦争への日本政府の加担姿勢を批判することには一定の理解を示しても、デモのあり方には納得できないし、今のお前は勉強する時でしょう、自分の一番やるべきことをしっかりやりなさい、といつも私の話の腰を途中で折った。

 ベトナム反戦運動の意義や、戦後社会の矛盾を話すよりも、もっと、自分の気持ちを話せばよかったのかもしれない。私が1967年の10月8日の羽田デモの日に大阪にいて感じたことや、1月の博多駅で理不尽に逮捕されて感じた悔しさなどの気持ちを。

 弟は当時小学校の3年生だった。私が帰ってきた日、弟は家の前で近所の子と一緒に遊んでいたが、自分からは私のところに寄ってこなかった。友達が「〇〇ちゃんのお兄ちゃん帰ってきた」と大声で言うと、なんだか恥ずかしそうに走りだし私より先に家の中に入ってしまった。

 弟が私のことで肩身の狭い思いをしていると母が言った時、私はその時の弟の姿を思いだしていた。ある時、弟に兄ちゃんのことでいじめられたりすることがあるかと聞くと、そんなことはないと言ったが、しばらくして「捕まったことある?」と突然聞かれた。私は、母に話そうと思って果たせなかったことを弟に話した、私が学生運動に入っていったのはどうしてか、その時の私はどんな気持ちだったか、をできるだけわかりやすく丁寧に話した。

 弟は聞き終わると、ニコッと笑って、「兄ちゃん、わし兄ちゃんの気持ちわかるけえ」と言った。


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