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ひかりみちるしじま(5)


 1968年は世界中で、新しい学生運動が燃えあがった。それまで政治には興味のなかった人たちも参加したくなるような運動が、アメリカや西ヨーロッパの国々にも、ソビエト連邦(今のロシアを含め中央アジアから東ヨーロッパに広大な領土を持っていた社会主義国)に影響を受けて社会主義を選んだ東ヨーロッパの国々にも、広がった。学生たちは自分たちの国の仕組みやあり方を激しく批判した。

 アメリカではベトナム反戦運動が大学改革の運動につながった。パリ大学の改革運動から始まって全国の学生や若い労働者に広がったフランスの運動は、「5月革命」と呼ばれて世界中の学生や若者たちから注目された。ドイツ、イギリスはじめ西ヨーロッパの各国で、学生は政治や社会のあるべき姿について積極的な発言をはじめた。社会主義国でも各国で体制批判が激しく行われたが、中国の「文化大革命」も「プラハの春」と呼ばれたチェコスロバキアの改革運動も、学生を中心とした若者たちが主役だった。

 東西を問わず、体制を問わず、全世界の若者に「今のままではいけない」という想いが共有された。そして各国の運動は、相互に強く影響しあい、世界中に広がった。
 日本でも、1967年の二度の羽田闘争から、1968年1月の佐世保闘争を経て、1968年は学生運動が激しく燃えあがる年になった。

 私は2月から何度か、千葉県に計画中の新空港の建設に反対する「三里塚闘争」に参加した。今の成田国際空港の建設反対運動だった。この地域は、戦後に入植した開拓農民が切り拓いた農村地帯だった。
 60年代の高度経済成長にともなう物流の圧倒的な増大に対処するために、政府は新しい空港を建設することを決めたが、空港の候補地は、地元の反対にあって二転三転した上で、三里塚芝山地域に決まった。地元の農民はじめ反対派は1966年に「三里塚芝山連合空港反対同盟」を作った。革新政党や学生運動組織が支援した。1968年に空港建設が本格化していくにつれ、空港公団から反対同盟への切り崩しも進み、新左翼各派の学生運動組織が運動の前面に出ることになった。

 新左翼というのは、1950年代、60年代に日本共産党を批判して離党した人たちが作った政治組織の総称で、何度かの分裂を経ていくつもの組織ができていた。目指すゴールは同じようでも、そこにいたる方法についての主張が少しづつ違っていたのだ。デモのときにかぶるヘルメットの色やマークも違っていた。
 新左翼の政治運動は、議会内の活動ではなく、街頭での「直接行動」(荒れるデモ)によって関心を集めたが、その直接行動を引き受けたのは学生たち、学生運動だった。また、学生運動が激しくなるにしたがって、お互いの主張の違いをめぐる論争が「党派闘争」などと呼ばれて暴力的になることも多くなっていた。

 私は67年10月8日の羽田デモで亡くなった山﨑博昭と同じ組織に加わっていたが、三里塚のデモで、一度警察とではなく、他党派のデモ隊との間で乱闘になりかけたことがあった。そのとき、相手のデモ隊の中に高校3年の時の同級生Aがいた。定期試験前に試験勉強を口実に集まってビールを飲んだり、禁止されている成人指定の映画を一緒に見にいったり、数々の「悪行」をともにした仲間だった。
 Aと私はほとんど同時に気がついた。左足が不自由で高校時代は杖をついていたが、そのときAは杖を持たず、うっすら眉間にしわを寄せて私を見つめた。やがて苦笑いとも照れ笑いともつかない中途半端な笑顔を浮かべて顎をしゃくった。今にも飛びかかりそうな周りの気配に緊張しながらも、私からも顎をしゃくって挨拶らしいものを返した。
 幸いその時は、お互いの隊列が湾曲して、一部が接触して、数名が殴り合っただけで、すぐ二つの隊列は離れた。私とAは声を掛け合うこともなく、それぞれの隊列の中でそ知らぬ顔をしていた。

 数日して、Aから短い手紙が来た。足は手術して今は新しいギブスを履いていてデモも杖なしで平気、機動隊を蹴っとばすこともできる、と自慢していた。
最近付き合っていた女子学生と、「俺たちに明日はない」を見たが、主演のフェイ・ダナウェイに彼女が似てると言った一言で喧嘩になり、別れてしまったそうだ。「俺はお世辞のつもりだったが、自分はあんな向こうみずなタイプじゃないそうな」と書いていたが、別れたことをそれほど残念に思ってもいない様子だ。
 私とAがそれぞれ加わった党派と党派の争いについては何も書いていなかった。そんな話はしたくなかったのだろう。私もそうだった。

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