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20世紀美大カルチャー史。「三多摩サマーオブラブ 1989-1993」第16話

1991年3月に決定した、日本のブラック・ミュージック界の老舗名門ライブハウス・高円寺「ジロキチ」での単独ライブを控え、我々はひたすら練習に励んでいた。

そんな1991年の2月、ヌマサワが「プールでバッタリ会ったんだよ!」と坊主頭のサックス・プレイヤーをリハーサル・スタジオに連れてきた。

彼こそが、現在、日本ジャズ界の重鎮である井ノ瀬氏であった。

スタジオに入るなり、井ノ瀬氏はニコリともせずに自分の楽器を準備し始めた。

その「プロ・ミュージシャン」の恐ろしいオーラに私はビビりまくっていた。

「じゃあ始めますので、頃合いを見計らって入ってきていただけますでしょうか?」

私はそのオーラにビビりながら井ノ瀬氏に伝えると、バンドにP-FUNKマナーのオリジナル曲『魅惑のチンボ・チンボ』をプレイするようにキューを出した。

イントロが始まるや、井ノ瀬氏はおもむろにソプラノ・サックスを吹き始めた。

ぴや~~~~~♬

一音聴いただけで「次元が違う」ことがハッキリと分かった。

「すげええええ!!!!」と私はイントロの途中で叫んだ。

そのまま、JBのカバー曲でもサックスをお願いした。
そこには『I FEEL GOOD』の、かの有名なサックス・ソロも含まれていた。

ジロキチでのライブは3月であるが、そのまま井ノ瀬氏はバンドに参加してくれることとなった。

そしてなんと、予定より早くベースのハルノが帰国した。

しかし、バンドにはすでにフッシーが居る。

我々は「どうするよ?」と頭を悩ました。

「ハルノ、スタジオ来るって」

緊張感が漂う中、
いきなり練習スタジオに登場したハルノは、皆が固唾を呑んで見守る中、おもむろに「ギターアンプ(マーシャル)」にベースをつなげると普通に演奏に入ってきた。

この瞬間、(恐らく)近代大衆音楽史上初の「常設ツイン・エレクトリック・ベース」のバンドになったのである。

さて、1991年の3月、

単独ライブ当日のジロキチは、なんと入り口の階段にまで人が詰まっている超満員状態であった。

そして楽屋で出番を待っている間、私とコヤマはサックスの井ノ瀬氏に話しかけた。

「一応、うちのバンドはステージ・ネームがそれぞれありまして、え~、井ノ瀬さんは「JUJU」ってお名前でいかがでしょうか?」(私とコヤマが先のスタジオでのリハの後に「おい、井ノ瀬さんのソプラノ・サックス、ウェイン・ショーターのアルバム『JUJU』みたいだな!」と話をしたことを受けていての提案だった)

井ノ瀬氏はつまらなそうに「ふん」と返事をした(※1)。

(怖え~~~~!!!)と私とコヤマは震えた。

まもなく、
完全に(事前にアルコールを仕込んで)「出来上がった」状態のヌマサワがMCのコヤマが登場する前に勝手にマイクに向かってしゃべり出した。

会場はそれだけで大盛り上がりである。

我々は単独ライブ、1時間をやり切った。

ハルノは上半身裸に「金色のオムツ」を装着してベースを弾いた(足元は「ママ・ブーツ」であった)。

私は溶接用のサングラスをして、JBダンス用に「靴の滑りを良くするために」靴の裏にガムテープを貼った。

ジロキチの楽屋、筆者とハルノ

途中、「マント・ショー」も繰り広げた(筆者註:忌野清志郎がステージでマント・ショーをやり始める10年前のお話である)。

井ノ瀬さんのサックスは完全にバンドを次の次元へと上げてくれていた。

こうして1991年の春は、バンドだけで十数人、客も入れると40人近い人数で高円寺駅前の居酒屋での「打ち上げ」で大いに盛り上がり、
その中心には「ファンクの帝王」として私が鎮座していた。

さらに、この時の我々のライブの模様は雑誌『JAZZ LIFE』に2ページ見開きで掲載された。

うちのギターのハラは音楽出版社リットー社の社員で、雑誌『JAZZ LIFE』の編集担当だったのだ。

我々はいきなり「謎のファンク集団」としてメディアに登場したのであった。

そして次のライブは原宿「クロコダイル」に決まった。
こちらも1980年代から東京のブラック・ミュージック・シーンを支えてきた老舗ライブ・ハウスである。

1991年の初夏である。

当時の米米クラブのバックバンドのメンバーだかが個人的にやっているというバンドの前座としての登場であった。

自分たちの出番が終わると、うちのバンドのメンバーたちはフロア最前列で上記バンドの「接待ダンス」を繰り広げて場を盛り上げた。
実に営業熱心で良い態度である。

「半端なプロのカッコつけたオッサン」が大嫌いな私は、その光景を横目に見ながら地上へ向かう階段を登り、ライブハウスの外に一人で出た。

外で一人、煙草を吸いながら、初「クロコダイル」でのライブの成功に浸っていた。

我らがバンドは完全に勢いに乗っていた。

上記ライブの熱演が評価されて、再び「クロコダイル」から次のブッキングのオファーが来た。

対バンは、いよいよ「あの!」オトハくん率いる「パンティ・スキャット」である。

(つづく)

※1: この時のステージネームは、現在の伊之瀬氏のオフィシャルネームとして使われている。

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