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【UD】中学校、入学〜最初の別れ「R君」(自己紹介20)
皆様、こんばんは!
埼玉県越谷市で、がやてっく株式会社という小さな会社を経営している小栗義樹と申します!
本日は僕の自己紹介記事「ちょうどいいハンデだ」のUPDATEをします。
本日アップデートする元ネタはコチラです。
アップデート記事とは何かというと、
・当時書いた本文(下線部分内)を少しだけ修正・加筆する。
・冒頭の挨拶文(これ)を完全リニューアルする。
・文末は有料パート。過去に書いた自己紹介を読み直し、思ったことや違った視点・別の切り口などを加筆、思い出した新たなエピソードなども追加します。
有料部分はかなり尖った話をします。僕に興味津々の物好きな方に刺さる、人生に役立つお話を沢山用意しておりますので、よかったら購入してみてください!
今日は、親友であるR君との別れについて書いています。文末にはアップデート記事で、現在のR君について少しだけ書いています。有料パートは、本文にも出てくる女子1について。僕が持っていた当時の心境を赤裸々に綴りました。良ければ最後まで、お楽しみください!
それでは参りましょう!
この記事は、2023年1月17日に投稿した、僕の20本目の自己紹介記事です!
中学になると、陽キャと陰キャの壁は特に厚くなりますね。いじり方やケンカなんかも今までより好戦的になり容赦がありません。
中学生になった僕の中学生に対する印象は「怖い」です。
僕が中学生の頃は、EXILEが流行っていました。どこもかしこもEXILEです。追随するようにジャニーズ祭りです。KAT-TUNやNEWS、関ジャニ∞が最盛期を迎えていました。
地方の少しヤンチャな人間の気持ちを刺激する音楽が流行っていた時期です。
特にEXILEです。ボーカルのATSUSHIさんは越谷市出身です。EXILEが頭角を現し、スターに駆け上がっていった時期、あの時期に僕は越谷市で中学生をやっていました。あの日あの時をリアルタイムで生きていた僕はその熱狂を肌で感じた1人です。
一言で言うと困りました(笑)
だって、周囲のヤンキーみたいな人、みんなEXILEみたいなんですもん(笑)
怖いです(笑)
もちろん、EXILEはそんな思いで音楽をやっているわけじゃないですよ?
でも、不良っぽい男性がスターになる。いわばワンスアゲインです。陽キャの胸をうち、マネをするのは必然。それを、自分の街の先輩が成し遂げたわけですから、そりゃあもうお祭り騒ぎです(笑)
女子人気もすごかったです。
第2章で新メンバーとなったTAKAHIROさんの影響ですね。
今思えば、あの頃からEXILEって完璧なグループですよね。売れるため、有名になるために生まれたグループって感じです。
一方その頃僕はと言うと、EXILEとは無縁。下手すると完全に反対側にいた人間でした。特に憧れや夢などはなく、毎日平和で僕にとって楽しい人生になればいいと思っていました。
そんな僕の中学1年生。
まず「奴」と再会する事になります。
Mです。
4年生の頃、派手にいじめられた能無し鉄砲玉。奴がクラスにいたのです。
「うわ、嫌だなぁ」と思いましたが、相手にしない事に決めました。いちいち付き合うから面倒な事になる。シカトしていればいい。そんな風に思っていました。
後に僕は「公開告白」という形で奴に一矢報いる事になります。次か、その次の記事でさらっと出てくるのでお楽しみに。
一方で、同じクラスには「Y君」と「A君」、それから幼馴染の「S君」がいました。隣のクラスには「H君」もいます。家が近所だったので登下校は「H君」と一緒です。彼らがいるだけで楽しい学校生活が送れそう。胸が軽くなりました。
この頃は、家も割と平和な方でした。
相変わらず、妹と母の不毛な言い争いは続いていましたが、育ての父とはそこそこ良好な関係を築けていたと思うし、家計も安定していたはずです。
弟も大きくなって手がかからなくなっていました。
ただ、着々と崩壊に近づいていたのも事実です。この頃くらいから、育ての父が「独立」して自分の店を持つと言い始めていたと思います。
この独立が、母と揉める原因になるのです。
前職で広告の仕事とコンサルをやって、現在は独立しているから分かります。育ての父にお店を運営していく能力はありません。才能もなければ、努力も足りない。あそこで堅実に努めていれば、あんなに気まずい事にならずに済んだのに。
もう1つ、母を野放しにしすぎたのも問題でした。思い返すと、多分この辺から調子に乗っています。力も無いのに己の能力を過信した結果、現在の僕に借金という形で迷惑をかけ、足を引っ張っています(笑)
あの頃の義樹君がもう少し賢くて、もう少し周りが見えて、もう少し力があれば阻止できたかもしれませんが、残念ながら当時は何も分かっていなかったのです。
正直なところ、中学生の頃の僕は「学校」よりも「家」の方が問題でした。日を追うごとに明らかに空気が悪くなっていくのですから。
その辺りも、ちょっとずつご説明していこうと思います。
さて、中学1年生になっても「R君」との付き合いは続いていました。学校が違うのにも関わらず、ほぼ毎日遊んでいました。
そんなR君は中学でバドミントン部に入部しました。偶然ですが僕もバドミントン部に入りました。打ち合わせなし、本当に偶然です。つくづく気が合うなぁと思います。
ちなみに僕の通う中学校は小さくて、部活が14個か15個くらいしかありませんでした。しかも文化部が全然ない。あったとしても比較的女子が多い部活しか存在していませんでした。
だから、消去法で選んだのがバドミントン部です。運動部の中でも、楽そうだというのが理由です。(これが後に大きな間違いだったのですが笑)
正直、入りたい部活はなかったので、どこでもいいと思っていました。ただ、R君が同じ部活なら頑張ってみるのもありかもしれないと思いました。この頃の僕は、まだR君に対して少しだけ嫉妬の感情があったと思います。
同じタイミングで始めた部活で強さを競うことができるなら、僕にも勝てるチャンスがあるかも。そんな風に思ったのだと思います。
しかし、この希望もまっさらな白紙に戻ります。
そろそろ最初の別れについて語りますかね。
中学校は、出来る限り均衡を保って生活していました。1か月も経過するとみんな学校に慣れていきます。すると、休み時間に集団で行動し、わちゃわちゃ騒ぐ生徒が現れました。中学校陽キャの誕生です(笑)
EXILEのような格好をした男子や、化粧をし始める女子がとにかく群れます。同じような感性を持つ人間とつるんで、クラスで存在感をアピールするのです。
僕は、そんな陽キャに目を付けられたくないので出来る限り気配りしつつ、穏便に過ごせるよう努めました。冒頭話した通り怖いですし、そもそもめんどくさかった。そんな明るい空気についていけるほど、元気な人間じゃなかったのです。
先ほども書いたように、この頃も校外ではR君と遊んでいました。
だから、クラスで仲の良い友達を作れなくても、彼がいるので問題なかったのです。
ところが、そんな時間は長くは続きませんでした。
「俺、アメリカに行くことになった」
R君が、僕に言いました。
お父さんの転勤でアメリカに引っ越すことが決まったのです。本当にいきなりで、ビックリしました。
多分思考が追い付いてなかったと思います。
「正直行きたくないけど、まぁ、楽しむわ(笑)」
そんな事を言っていたような気がします(笑)
R君の住んでいる場所はご近所づきあいが盛んで、近所の人たちが送別会を開くことになったらしく僕もそこに呼ばれました。
同じ町内ではなかったのに、僕が送別会に呼んでもらえたのには理由があります。
R君の家の近所に住んでいた人の中に、6年生の頃同じクラスだった女子生徒がいて「小栗君は仲がよかったから呼んであげて」とお願いしてくれたからだそうです。
そんな経緯を経て、僕は送別会に参加させてもらいました。
正確な日にちは覚えていないのですが、多分R君がアメリカに行く3~4日前くらいの出来事だったと思います。
僕はある人から手紙を預かっていました。僕が素敵な人だと思っていた、女子1です。
花火大会が終わり応援団をやったあとくらいから、たまに話す程度の関係になっていて、中学1年生もクラスが同じでした。
Rくんとも面識があったので「R君が、アメリカに行くらしい」と女子1に伝えました。
すると、女子1は「マジで?」と言い、僕に手紙を渡してきました。
「R君に渡して」と言って。
複雑な心境であることは間違いありません(笑)
好意を持っている女性が、友人に手紙を渡す。しかもそれを託されるわけですから(笑)
ただ、その話題を持ち掛けたのも僕ですからね。
「分かった。渡しておく」と言いました。
ちなみに中身は知りません(笑)
「絶対、見るなよ」って言われたので(笑)
送別会は楽しかったです。周囲は知らない人ばっかりだったけれど、R君と過ごした最後の時間でしたから。
恐らくなのですが、この送別会からアメリカに行くまでの間、R君とは一回も会いませんでした。なんとなく、別れを実感するのが怖かったし、泣くのも嫌だったのだと思います。
僕の中で、R君はかなり大きな存在でした。
だから、これから会えなくなるという事実をあんまり直視したくなかったのだと思います。
送別会で何をしたのかはほとんど覚えていないのですが、1つだけすごく覚えている事があります。
送別会の最中、R君のお母さんから「仲良くしてくれてありがとう。こんなに長く付き合っている友達は初めてだと思う。これからも仲良くしてあげて」と言われました。
僕、この言葉がすごくうれしかったんですよね。
僕にとって大きな存在だった「R君」
それは僕だけだと思っていたのですが、R君にとっても僕は大きな存在だった。そんなことを実感できた言葉だったんです。
R君は、変な人でした。明るかったから人は集まってきたけれど「友達」は多くなかったのだと思います。
そうでしょ?(笑)
友達って「理解しようとする気持ち」と「フィーリング」じゃないですか?
僕がR君に「気が合うな」と感じていたように、R君も僕に対して「気が合うな」と感じてくれていた。一緒にいられるというのはそういうことなんだと思います。
今では考えられませんが、僕たちが中学1年生の頃、2005年とか2006年は、海外に行くというのは「もう会えない」に等しかった。
SNSなんてないし、携帯もガラケーです。やりとりと言えばメールが主流。僕たちは携帯を持っている人と持っていない人が半々だった時代の人間です。だから「連絡」がとても難しかった。国際電話なんてのもありましたが、すごくお金がかかります。そんな簡単にできません。
「距離」というものをリアルに感じる最後の世代。それが僕たちの世代だったと思います。
人とは簡単に会えなくなる。
どれだけ仲が良くても、どれだけキズナがあっても、環境によって人は簡単に会う事が難しくなる。もっと言えば、子供であるうちはその環境を決める権利がない。いつだって大人の言いなりです。
僕はこの一件で、そんな事を学んだんだと思います。
おぼろげですが、送別会のあとにR君とこんな話をしました。
帰ってくる予定はあるのかい?
まだ、分からないけど。俺たちはずっと友達だ。またいつか会おう。
僕にはこの時の「いつか」が果てしなく遠い気がしていました。
そしてやっぱり実感しました。
「遠いんだなぁ」と。
せっかく出会えた「理解者」はこんな簡単にいなくなってしまいました。
明日から、もう少し学校に目を向けないといけない。そんな風に思った気がします。
僕はR君との「別れ」を経験した後、家でも学校でも非常に微妙な立ち位置をキープしながら過ごすことになります。
そしてこれが、別れの序章でした。僕にはこの先、さらに悲しい「別れ」が待っています。頑張っても取り返せない。埋めることができない別れです。
ありがとうございました。僕の20本目の自己紹介記事でした。
ちなみにこの、お別れしてしまったR君ですが、現在は同じ町の近所に住んでいて、月1くらいのペースで遊んでいます(笑)
この後の自己紹介記事でも、帰ってきたR君については触れているのですが、彼の現在については触れていませんね。彼はすでに結婚し、子どももいます。
結婚したのには驚きました。モテるというイメージはありましたけど、結婚するようなタイプだとは思っていませんでしたから。
あくまで傍から見てですが、生活ぶりはとても幸せそうです。友人として、これほどうれしいことはありません。子どもも可愛いですしね(笑)
彼はこれから、海外での生活を視野に入れていると言っています。とにかくジッとしていられないんでしょうね。それもこれも、このアメリカへの引っ越しが大きく作用しているのでしょう。
近い将来、また遠くに行ってしまう気がしますが、今は当時と違い、距離がだいぶ離れていても、あんまり気になりませんよね。本当に、すごい時代になったなぁと思います。
R君は、すごい自由人です。多分、少し自分勝手だと思います。そんな人間でも、明るさと信念があれば幸せになれる。そんな素敵な事例です。好きな事をして生きていきましょう(笑)
R君のように、信念と明るさがあれば、それでも幸せになれるのですから(笑)
さぁ、ここからは有料パートですね(笑)
本編に出てきた、手紙を渡してほしいと頼んできた女子。すごくきれいな女性でした。今日の有料パートは、この女性とのエピソードについてお話します。
本編では好意と抱いている感じのニュアンスで書きましたが、恋愛?とはちょっと違う、なんとも言えない気持ちを抱いていました。赤裸々に語ります。
この先もぜひ、お楽しみください。
この女子1と書いた女性ですが、小学校の頃、確か4年生と6年生で一緒だったと記憶しています。6年生は覚えていますが、あと1回、どこかのタイミングで同じクラスだったはずです。
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