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2017年9月の記事一覧
部屋が散らかる話(そして部屋との別離)
私は部屋がすぐ散らかるたちだ。
そもそも日頃から片付けをしない。月に1度あるかないかの大掃除において、そこいらじゅうに散らばったモノをナントカしまい、ゴミを捨て、ようやく掃除機をかけるといったありさまだ。だいたいヘッダーの画像みたいな状態になっている。
こんなことじゃあいけないなあ、と思いつつ、エントロピーが気付けば増大してゆく日々だ。もはや散らかしていることに気がついていないといってい
嘘偽りなく言いますと、「言葉なんてもうまっぴらだ!」と思ってしまうことはよくあります。
無気力さでいうたらわたしの右に出るもんおらんのちゃうか、と思わず考えてしまう程度には、結構な大波のなかにいた。
現実を見たくない。文章書きたくない。
家から出たくない。誰とも会いたくない。
素敵な言葉に心を動かされることなんて、まっぴらごめんだとすら思っていた。
というかやや現在進行形で、今もそう思ってしまうから大変だ。
言葉で心を動かしたいとか書きたいとか、散々言ってきたくせに死ぬほど矛盾
そんなことやってる場合、なのです。
「そんなことやってる場合か!」
国政からプライベートの些事にいたるまで。ひとまずそのことばを投げつけておけば、なにかを言った気になり、投げつけられれば「たしかにそうかも」と焦ってしまう。けっこう汎用性の高いキラーワードのような気がします。
たとえば、ぼくがこのブログを書いていることだって、「そんなことやってる場合か!」とお叱りを受けても仕方のないことだと思いますし、忙しいときにはごはんを食べる
「書こうとするな、翻訳せよ」について。
古賀史健さんの「20歳の自分に受けさせたい文章講義」
文章術の本なんですが、共感するところが多いあまり感動したという話を、以前書きました。
「書くことは、考えること」について
「書こうとするな、翻訳せよ」2つ目の共感ポイントの話です。
言葉になる以前の頭の中にある”思い”や”感じ”、こられを古賀さんは「ぐるぐる」と名付けているようです。
頭の中の「ぐるぐる」を、伝わる言葉に”翻訳”したもの
吉祥寺を吉祥寺たらしめるもの
夕方6時、ちょっと暗くなりかけた秋の入り口。一年ぶりに、吉祥寺の街を一人でぶらぶら歩いた。
吉祥寺は犬が多い。子供を連れた人も多い。おばあちゃんも多い。なにが違うんだろう、と思ったらスーツのサラリーマンが少ないんだな。
スニーカーに白いTシャツにスカートという、およそOLには似つかわしくない格好で、わたしは仕事終わりだった。
お気に入りのお店を覗き、はらドーナツをひとつ買って食べ歩いた。はらド
不安を感じるために生きているのかもしれない
不安を感じるために生きているのかもしれない、とたまに思う。
どういう事かというと、不安を感じている時ほど人間は生きているという実感があるんじゃないか、という事だ。
不安で落ち着かな、夜も眠れない、そんなときほど、生きている実感が感じられる。もちろん苦しいのだけれど、苦しさと生きている実感は別の縮尺にある。
もちろん嬉しさや幸せ感も生きている実感になるけれど、それは不安や苦しみがあってこその喜
若く結婚したプリンセス眞子ちゃんより、地味で真面目風なのに爆速で将棋無関係な人まで礼儀正しく蹴散らしていく藤井四段に釘付け。なれるもんなら藤井四段になりたい。将棋しないけど。