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 開いたばかりの蕾が全て開き、小さな花びらが万雷の拍手のように可憐に舞った。
 綻んだ春月の眼差しは取り分け、神秘的で包み隠さず、到来する新たな季節を祝福しているようにも僕には思えた。

 昔、持ち合わせた苦悩が綺麗さっぱりと片付けられ、愁傷さえも癒せるような、春の永久の朝だった。
 もう、陰鬱な僕とはさよならできたんだ。
 曇りのない手鏡の表面のような僕でいられたんだ。

 早朝、緊張のあまり、冴えた両目で真新しい襟詰めを確認し、姿見の前で埃を払ったら、伯父さんから、よく似合っているよ、俺の中学生の頃にそっくりだった、と褒められた。伯父さんの明朗さはどうも、その気質の内側から組み込まれたものだ、と分かった。

 教室も少ない人数の割にはだだっ広く、大きな教室に三つの机しかないから、使い放題だった。
 担任の先生は国語の先生で白髪頭が特徴的で、教育者としてベテランというべき、先生だった。
 黒板に初めまして、という文字とともに長友弘昌(ながともひろまさ)、という人名が白いチョークで書かれてあった。


「銀鏡辰一君。辰弥君から聞いたけど、君は本をよく読むんだって? 最近、何を読んだのかい?」
 初対面からホームルームでの本への質問コーナーは悪くない。
 僕は大江健三郎の『芽むしり仔撃ち』を答えた。
 東京にいた頃に神保町の古本屋で目に止まって、買った古本だった。
 なかなかの難解な小説で、適度に知らない語句があれば、国語辞典を照覧しながら、読み進めるうちに情景が目に浮かぶように読めた。

「すごいな。まだ、中学生で大江健三郎を読んでいる生徒は、今までいなかったな。先生も実はまだ読んだことがないんだよ。いやいや、この年で読んでいないのは恥ずかしいな。芥川の小説は全て読んだよ。三島由紀夫や川端康成もまだ、全ては読んでいないが、まあ、芥川の小説は短編だから読みやすいから、君も読破してみるといいな」
 校庭に咲き誇る、満開の桜が瑞々しい、芝生の若緑と溶け合っている。
 もう、明日には散ってしまうかもしれない、と半ば諦めかけたとき、淡雪のような花吹雪が窓を超えて、教室の真ん中まで舞い込み、教室の中央に着席している、少女の机の上に止まった。
 僕はその少女の雪肌のような横顔を初めて、直視した。
 たおやかな黒髪が一本結びで締められ、その魔法使いが飛ぶ、箒の尾のように緩やかに垂れている。
 少女の啓蟄の野辺の雪解水のように、澄んだ眼を僕は見てしまった。
 その眼を一度でも見つめてしまうと、果てしない曠野に集くように咲く、勿忘草を見たときのような心地になった。

「すごくたくさん本を読むんだね! 銀鏡中から自転車で通うの?」
 何にも染められてない、黒髪が春風に揺られ、好奇心に駆られた、二重の眼が大きく開き、混じりけない豊かな頬は赤く火照り、健康的な唇が真っ直ぐに動いた。
「ここからはそんなに遠くないと思うよ。自然を観察しながら、自転車に乗ると、風が心地よいんだ」
 僕の家から銀鏡中までは約十キロメートルはある。
 帰り道は急勾配のある九十九折りの坂だから、口にするのも噤むほど辛い。

「私のおじいちゃんは宮司なの」
 その子は太古の神々が降臨する、神話の地に相応しい、自己紹介をした。
「名前は?」
 思わず、口走るとその子は好奇心旺盛で澄んだ眼をきょろきょろさせながら、朗らかに口を開けた。
「螢。濵砂螢(はますなほたる)っていうの。この村では濵砂さんが一番多い苗字なんだよ」
 その子の邪気のない、眼差しに僕の心臓は、夏のバカンスで日光浴をした後の、程よい疲れのような心地よい眩暈を覚えた。
「私なんか生まれたときから、銀鏡に住んでいるから都会に憧れちゃって、……大きな学校っていじめとか、あるの?」

 田舎の子供らしいな、大きな学校という響き。この子は幸せなお家で育ったんだな、と僕はふふふ、とばれないように笑った。
 優しいお父さんと温かなお母さんに囲まれて、すくすくと若芽のように成長し、僕みたいなやましい煩悩とは無縁な人生を歩み、人を疑うような邪心はなく、人の不幸をせせら笑いもしない、そんな少女。

 どうしようか、こんなに仲良く話してもいいものなのか、と脳裏に幾許かの不安がよぎる。
 この子と手を繋いだら、罰が当たってしまう。
 僕は軽度の緊張のあまり、つい、目配せをして、視線を合わせられなかった。

「この前、辰一君のお母さんの千夏さんを見たんだけど、すごく綺麗な人だよね。若くて、背もモデルさんみたいにすらっとしていて。いいな。若いお母さんがいて。私のお母さんはいつもだらけた恰好ばかりしているもん」
 あの人は綺麗だ、とよく褒めているのか、貶しているのか、分からない、冷笑的な賛辞をもらう。
 多少なりとも、身なりにはどうでもいいから、きちんと親の義務として、それなりの愛情で接してくれる、親でいてほしかった。

「眼鏡をかけているのが清羅さん。清羅さんはね、すごいんだよ。蝶の採集が趣味で家には標本箱がたくさんあるの」
 清羅さんは髪の毛がぼさぼさで、思春期にありがちな、ニキビが頬に円を描くように見えていた。
 昆虫採集が趣味なんて、今どき、珍しい。
 俗世間から離れているというか、一人だけ、旧世界の楽園の住人のように際立っている。
「辰一君、初めまして。那須清羅(なすせいら)です。オオムラサキの標本を見せたいです」
「オオムラサキって絶滅危惧種の蝶のこと?」

星神楽⑧ オオムラサキの蝶|詩歩子 複雑性PTSD・解離性障害・発達障害 トラウマ治療のEMDRを受けています (note.com)


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