清羅さんの目がここぞ、とばかりに輝いた。清羅さんは同級生なのに、慣れない敬語を駆使していて、僕は首肯しかねた。


「詳しいね! そうですよ。詳しくは絶滅準危惧種ですよ」

 そんな希少な蝶々を果たして、標本の餌食にしていいのか、と疑問が幾つも浮かんだ。

 聞く話によると、清羅さんが採取した蝶々ではなく、清羅さんのお父さんが子供の頃に採取した蝶々なのだという。


 小学生の頃に昆虫図鑑をめくり、食い入るように見たことがある。

 ポストカードを真ん前に構図としてアップしたい、と衝動に駆られるような、美しい蝶だった。

 濃紫色の鱗翅の中に、白い水玉模様が楚々と浮かび、羽先を囲む、紫黒色と山吹色の水玉が縁取っている。

 その濃紫色はラピスラズリの原石を錬金術師が溶解させ、その純然たる一滴の雫を集めた、小さな湖沼の水面のようにも見えた。


「銀鏡にはいるんだ」

「いっぱいいますよ! 揚羽蝶なんか夏になると、川岸にうじゃうじゃ飛んでいますよ」

 僕らの会話をよそに君が目を細めて笑っている。

「清羅は蝶の話になると止まらないものね」
「銀鏡には濱砂(はますな)さんと中武(なかたけ)さん、甲斐(かい)さんと那須(なす)さん、興梠(こおろぎ)さんしか、いないんですよ。親戚じゃないのに苗字が一緒。田舎の証拠ですよね」

銀鏡神社の祠。

 伯父さんからも、口伝に耳に胼胝ができるほど聞いた。

 銀鏡では同じ苗字の人が、たくさんいるから通常、下の名前で呼ぶんだ、と。

「東京の暮らしって、どうなんですか? 教えてください。池袋とか、原宿とか、行ったことがあるんですか? 渋谷のスクランブル交差点って本当に人が多いんですか? 芸能人にしょっちゅう、会えるんですか? やばい、マジ会いたくなったんですけど」

 僕が住んでいた国立市は少し、都心から離れていたし、人いきれが僕を避けていたから、神保町に行く用事がある以外は、都心に自ら、率先して出向こうとはしなかった。

「東京育ちの人はあまり行かないよ。よく行くのは田舎から上京してきた人くらいだよ」

 つい、本音を言ってしまうと、清羅さんは憮然と口をすぼめた。

「いいよね、都会は何でもあって。銀鏡みたいな田舎じゃ、洋服だって気軽には買えませんし。コンビニも行けませんから。辰一君も神楽保存会のメンバーになるんでしょう?」

 不機嫌そうな顔の清羅さんから、急に相槌を強要され、はい、ととりあえず、返事する。

「神楽は一晩中、舞うんだよね? 僕は夜に寝るのが早いから大丈夫かな」

「辰一君は東京育ちなのに夜が早かったんですね。意外」

 あの人の嬌声を聞くのが嫌で早く、寝たふりをしていただけだ。

 あの人が養育費を愛人に大量に貢ぎ、蓮っ葉な自身もどんな如何わしい、夜の街の仕事に手を染めていたのか、毫も知りたくもない。

 ひたすら呪文のように唱えろ。

 今、僕は悪夢を見ているんだ。

 振り返りたくもない、触れたくもない、柳の木を倒す、春の嵐のような夢を。

 禍々しい過去が小さな胸を壊している。

 ありふれたフレーズが、脳内に青い噴煙のように漂う。

 他の人たちは前へ、前へもっと進め、切り替えろ、とそればかり、付和雷同に言う。

 本当は心の監獄にずっと立ち尽くしたいんだ。

 一切の陽光が射さない、独房の闇の底で。

 「どうしたの? 辰一君。顔色が悪そうだよ。保健室に行く?」

 心配され、僕は我に返った。

 こんなときに何を思い出したんだろう。

「私が辰一君を連れていくよ」

 行く春はもうすぐ、凛とした晴れ晴れしい歳月を連れてくるだろう。

 僕は授業が終わると、初日から保健室にお世話になり、昼休みの間はずっと床に就いていた。

星神楽⑨ 夜半の帳の物語|詩歩子 複雑性PTSD・解離性障害・発達障害 トラウマ治療のEMDRを受けています (note.com)


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