マガジンのカバー画像

武蔵野シェアハウス発、辺境の山旅

12
1990年代末、若き日のアルピニスト野口健たちと共に暮らした東京・武蔵野の木造一軒家。 無名の冒険家たちが集まるその空間は、異様なほどのエネルギーであふれていた。 「ヒマラヤに行…
運営しているクリエイター

記事一覧

連載第12話 混沌の街カトマンズと宇宙的な山エベレスト

連載第12話 混沌の街カトマンズと宇宙的な山エベレスト

 飛行機で降り立った街、カトマンズは、混沌とした街だった。
 彫りの深いアーリア系、日焼けした日本人のようなモンゴル系、ティッカと呼ばれる真っ赤な色粉を額につけた老人、サリーの女性、ボロボロのTシャツの男、路上で売られているアンモナイトの化石、奇妙な形の神々の石像と古い僧院、その周りを走りまわるサル、道端に寝そべる牛。
 私にとっては、まさに「異世界」だった。
 人間と、神と、動物が、低緯度の強い

もっとみる
連載第11話 カオスと化した出発ロビー

連載第11話 カオスと化した出発ロビー

 野口健と宮上邦子はエベレスト遠征に向けて、毎日のようにスポンサー活動を続けていた。
 宮上が企業に電話をかけ、アポポイントメントをとろうとする。しかし、話を聞いてくれる会社は少なく「今、忙しいんで」とすぐに切られることがほとんど。「なぜ私たちが学生の旅行を支援しなくてはいけないんですか?」と怒られることもあったそうだ。
「もう300社以上、電話をかけたよ」
 と宮上は、ため息混じりに私にそう言っ

もっとみる
連載第10話 巧妙に仕組まれていたエベレスト「清掃班」計画

連載第10話 巧妙に仕組まれていたエベレスト「清掃班」計画

 19997年、エベレスト北面、標高7000m。
 猛吹雪の中、野口健と田附秀起は極限状態で、登高を続けていた。
 平地の半分以下の低酸素に加え、体感温度はマイナス20度を下回る世界。
 比較的平坦なところで、ふたりが腰を下ろすと、田附は意を決して野口にこう言った。
「僕は下ります……。健ちゃん、絶対死なないでよ。」
 そして、息を切らせながら、こう続けた。
「生きて帰ってくれば、次が、あるじゃん

もっとみる
連載第9話 スポンサー活動への同行

連載第9話 スポンサー活動への同行

 18歳の時だった。
 静岡の港町から上京し、私は武蔵野にある大学に通っていた。はじめは自分でアパートを借りていたが、すぐに山岳部が共同生活をする古い木造一軒家に引っ越しをした。野口健、田附秀起、長尾憲明という先輩方がそこに住み、マネージャーの宮上邦子が、そこに入り浸っていた。

 1998年当時、「七大陸世界最年少記録」を目指していた25歳の野口健は、その夏、七つ目のエベレストに登頂するという目

もっとみる
連載第8話 97年、野口健のエベレスト挑戦の映像

連載第8話 97年、野口健のエベレスト挑戦の映像

超人サイクリスト長尾のシェアハウス入りで情熱を取り戻した野口健は、1997年5月、田附や宮上ともにエベレストに挑むことになる。
 直前に行われたネパールでの高所トレーングには、エベレストには行かない長尾も参加することになった。
 このエベレスト遠征は、家電メーカーがスポンサーについていたこともあり、野口たちはそのメーカーのビデオカメラをよく回していた。

 私がシェアハウスに引っ越してきたのは

もっとみる
連載第7話 光り輝くエベレスト登山計画

連載第7話 光り輝くエベレスト登山計画

 そんなわけで(前回参照)、突如として野口健の家に現れた長尾は、そのままそこで住み始めることになった。
 長尾は、2階の4畳半の部屋を割り当てられたが、その部屋にはほとんど行かず、1階のリビングで黙々とテレビを見続けていた。
 深夜までずっと見つづけ、そのまま寝落ちしてしまうことがほとんどだった。
 飽きれた野口が
「そんな見ててよく飽きないな」 
 というと、
「これまで家にテレビがなかったんで

もっとみる
連載第6話 シェアハウスの始まりと「どん底」の野口健

連載第6話 シェアハウスの始まりと「どん底」の野口健

 八ヶ岳から帰りしばらくすると、私は「シェアハウス」に引っ越しをした。
 2階の4畳半の部屋はわずか17,000円。
 しかも1階のリビングを共同で使える。
 武蔵野の中央線沿線の物件としては、破格だったと思う。
 90年代末期に、こんな60年代初期のような「下宿」作りの一軒家が残っていたのは、ひとえに田附の力だったようだ。
 私が、引っ越しする前、以下のような顛末から「シェアハウス」は始まったら

もっとみる
連載第5話 地獄のトレーニング計画、未遂

連載第5話 地獄のトレーニング計画、未遂

野口健さんともそのシェアハウスで数日後に会ったが、彼は開口一番こう言った。
「今週末は、富士山に行くぞ」
長尾さんとのヒマラヤ6000m峰に向けた調整にとのことだった。
ただの富士登山ではなかった。
「0合目から富士山山頂まで往復。それを3日間で3回やる!」
私は富士山に一度しか登ったことがなかったから、そのプランに驚愕した。登ったのは夏山で、もちろん五合目からだ。
野口さんと行くのは4月の雪山。

もっとみる
連載第4話 タルチョたなびく武蔵野の一軒家

連載第4話 タルチョたなびく武蔵野の一軒家

入試で初めて訪れた武蔵野市は、地元の静岡よりも樹木が多く、東京とは思えないような緑に囲まれていた。

駅から大学までの道には「スタジオジブリ」があった。
それは木々に囲まれ、小さな森のようだった。

そして亜細亜大学は、より大きな樹木に囲まれ、受験会場の教室の窓からも木々の梢が何本も見えた。
高校の教室で感じていた無機質感はなかった。
付け焼刃での受験だったが、ここから何かが始まる良い予感しかしな

もっとみる
連載第3話 テレビの中の無名時代の野口健

連載第3話 テレビの中の無名時代の野口健

北アルプスで穂高から剣岳まで広大な景色の中を歩いたが、数日後には、高校生という日常が待っていた。
鼠色の薄汚れたコンクリートの校舎。
小さな箱が何百と並ぶ靴箱。
成績の上位ランキングが張られた廊下。
そのずっと先まで続く同じ形の教室。
授業の始まりを告げるチャイム。
カタカタと響くチョークの音。

どうして自分は、こんなところにいるのか? 
生きている実感がまったくなかった。

剣岳山頂の顔に当た

もっとみる
連載第2話 『旅をする木』とはじめての旅

連載第2話 『旅をする木』とはじめての旅

写真家・星野道夫さんの『旅をする木』を、とりわけその中の「16歳のとき」の章を繰り返し読むうちに、私は長野県の北アルプスにも目が行くようになった。
山岳雑誌に出てくるその山域は、アラスカを連想させる広大な山々が広がっていた。
星野さんのように16歳でアメリカに行くことは難しいが、ここには一人でもいけるだろう。

1997年の夏—―。
16歳の私は、北アルプスの北穂高岳から剣岳まで縦走した。
知識も

もっとみる
連載第1話 16歳のとき

連載第1話 16歳のとき

1979年生まれ。
サッカー好きであれば、その年で思いつくのは「黄金世代」というキーワードだろう。
2002年に行われたワールドカップ日韓大会では、この「黄金世代」が主力メンバーとなり初の決勝トーナメントに進出。
その「黄金世代」は「サッカー王国」=「静岡県」の出身者が多かった。
私もその「王国」育ちの「黄金世代」。中学は強豪校のサッカー部に所属していた。
「全国制覇」を目標にしていたその中学は、

もっとみる