大石明弘

1979年生まれ。静岡在住。山岳ライター/登山家/プロパンガス会社経営者/南アルプスみ…

大石明弘

1979年生まれ。静岡在住。山岳ライター/登山家/プロパンガス会社経営者/南アルプスみらい財団テクニカルアドバイザー/SES発起人/著書『太陽のかけら』/共著『日本人とエベレスト』で「梅棹忠夫・山と探検文学賞」を受賞/2022年、北壁からマウント・ハンターに登頂。

マガジン

  • 武蔵野シェアハウス発、辺境の山旅

    1990年代末、若き日のアルピニスト野口健たちと共に暮らした東京・武蔵野の木造一軒家。 無名の冒険家たちが集まるその空間は、異様なほどのエネルギーであふれていた。 「ヒマラヤに行けばわかる」 野口健のその言葉に促され、21歳の私は8000m峰へ無酸素で挑戦することになる。 その山が縁で、平出和也、谷口けい、平賀淳に出会うことに。 魅力的で、楽しく、でも少しおかしな仲間たちがくれた言葉とエピソードをもとにした私小説風エッセイ。

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大石明弘 プロフィール

はじめまして。大石明弘と申します。 このNoteでは、マガジン 「武蔵野シェアハウス発、辺境の山旅」 の連載を綴っていきます。 十代の頃、アルピニスト野口健さんと共に東京・武蔵野の木造一軒家で暮らし、辺境の山々を目指していまいした。 野口さんと出会って3か月後には、エベレスト登山隊の一員としてヒマラヤへ。 そしてその3年後には、平出和也君とヒマラヤ8000m峰に登頂。 20年が経った今振り返るとかなり異様な日々・・。 それを綴った私小説風のエッセイです。 ぜひ「マガジン

    • 第9話 スポンサー活動への同行

       18歳の時だった。  静岡の港町から上京し、私は武蔵野にある大学に通っていた。はじめは自分でアパートを借りていたが、すぐに山岳部が共同生活をする古い木造一軒家に引っ越しをした。野口健、田附秀起、長尾憲明という先輩方がそこに住み、マネージャーの宮上邦子が、そこに入り浸っていた。  1998年当時、「七大陸世界最年少記録」を目指していた25歳の野口健は、その夏、七つ目のエベレストに登頂するという目標を持っていた。  まるで青春映画のような激しいトレーニングと、計画遂行のための

      • 第八話 97年、野口健のエベレスト挑戦の映像

        超人サイクリスト長尾のシェアハウス入りで情熱を取り戻した野口健は、1997年5月、田附や宮上ともにエベレストに挑むことになる。  直前に行われたネパールでの高所トレーングには、エベレストには行かない長尾も参加することになった。  このエベレスト遠征は、家電メーカーがスポンサーについていたこともあり、野口たちはそのメーカーのビデオカメラをよく回していた。  私がシェアハウスに引っ越してきたのは、野口がエベレストから敗退してから1年経った後、1998年のことだった。エベレス

        • 第七話 光り輝くエベレスト登山計画

           そんなわけで(前回参照)、突如として野口健の家に現れた長尾は、そのままそこで住み始めることになった。  長尾は、2階の4畳半の部屋を割り当てられたが、その部屋にはほとんど行かず、1階のリビングで黙々とテレビを見続けていた。  深夜までずっと見つづけ、そのまま寝落ちしてしまうことがほとんどだった。  飽きれた野口が 「そんな見ててよく飽きないな」   というと、 「これまで家にテレビがなかったんです」  と長尾は言った。  こんな奴がまだ現代の日本にいたのか、と野口は思ってい

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        • 武蔵野シェアハウス発、辺境の山旅
          8本

        記事

          第六話 シェアハウスの始まりと「どん底」の野口健

           八ヶ岳から帰りしばらくすると、私は「シェアハウス」に引っ越しをした。  2階の4畳半の部屋はわずか17,000円。  しかも1階のリビングを共同で使える。  武蔵野の中央線沿線の物件としては、破格だったと思う。  90年代末期に、こんな60年代初期のような「下宿」作りの一軒家が残っていたのは、ひとえに田附の力だったようだ。  私が、引っ越しする前、以下のような顛末から「シェアハウス」は始まったらしい。 田附と大家との交渉 田附は今でこそ、大手建築会社の本社ビル勤務をしてい

          第六話 シェアハウスの始まりと「どん底」の野口健

          第五話 地獄のトレーニング計画、未遂

          野口健さんともそのシェアハウスで数日後に会ったが、彼は開口一番こう言った。 「今週末は、富士山に行くぞ」 長尾さんとのヒマラヤ6000m峰に向けた調整にとのことだった。 ただの富士登山ではなかった。 「0合目から富士山山頂まで往復。それを3日間で3回やる!」 私は富士山に一度しか登ったことがなかったから、そのプランに驚愕した。登ったのは夏山で、もちろん五合目からだ。 野口さんと行くのは4月の雪山。 しかも0合目から3往復もするのだ。 累積標高差は9000m近くになるだろう。

          第五話 地獄のトレーニング計画、未遂

          第四話 タルチョたなびく武蔵野の一軒家

          入試で初めて訪れた武蔵野市は、地元の静岡よりも樹木が多く、東京とは思えないような緑に囲まれていた。 駅から大学までの道には「スタジオジブリ」があった。 それは木々に囲まれ、小さな森のようだった。 そして亜細亜大学は、より大きな樹木に囲まれ、受験会場の教室の窓からも木々の梢が何本も見えた。 高校の教室で感じていた無機質感はなかった。 付け焼刃での受験だったが、ここから何かが始まる良い予感しかしなかった。 その予感通りに私はその大学に奇跡的に合格した。 入学式の日、武蔵野市は

          第四話 タルチョたなびく武蔵野の一軒家

          第三話 テレビの中の無名時代の野口健

          北アルプスで穂高から剣岳まで広大な景色の中を歩いたが、数日後には、高校生という日常が待っていた。 鼠色の薄汚れたコンクリートの校舎。 小さな箱が何百と並ぶ靴箱。 成績の上位ランキングが張られた廊下。 そのずっと先まで続く同じ形の教室。 授業の始まりを告げるチャイム。 カタカタと響くチョークの音。 どうして自分は、こんなところにいるのか?  生きている実感がまったくなかった。 剣岳山頂の顔に当たる冷たい空気。 眩しい太陽。 うねるように続く山稜。 赤く輝く雲海。 黒から紺碧

          第三話 テレビの中の無名時代の野口健

          第二話 『旅をする木』とはじめての旅

          写真家・星野道夫さんの『旅をする木』を、とりわけその中の「16歳のとき」の章を繰り返し読むうちに、私は長野県の北アルプスにも目が行くようになった。 山岳雑誌に出てくるその山域は、アラスカを連想させる広大な山々が広がっていた。 星野さんのように16歳でアメリカに行くことは難しいが、ここには一人でもいけるだろう。 1997年の夏—―。 16歳の私は、北アルプスの北穂高岳から剣岳まで縦走した。 知識もお金もなかった。 ザックの中はドライフーズではなく、キャベツやニンジンなどの生鮮

          第二話 『旅をする木』とはじめての旅

          第一話 16歳のとき

          1979年生まれ。 サッカー好きであれば、その年で思いつくのは「黄金世代」というキーワードだろう。 2002年に行われたワールドカップ日韓大会では、この「黄金世代」が主力メンバーとなり初の決勝トーナメントに進出。 その「黄金世代」は「サッカー王国」=「静岡県」の出身者が多かった。 私もその「王国」育ちの「黄金世代」。中学は強豪校のサッカー部に所属していた。 「全国制覇」を目標にしていたその中学は、向かうところ敵なしのチームになっていった。 「マインドコントロールが重要だ」 と

          第一話 16歳のとき