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連載第11話 カオスと化した出発ロビー


 野口健と宮上邦子はエベレスト遠征に向けて、毎日のようにスポンサー活動を続けていた。
 宮上が企業に電話をかけ、アポポイントメントをとろうとする。しかし、話を聞いてくれる会社は少なく「今、忙しいんで」とすぐに切られることがほとんど。「なぜ私たちが学生の旅行を支援しなくてはいけないんですか?」と怒られることもあったそうだ。
「もう300社以上、電話をかけたよ」
 と宮上は、ため息混じりに私にそう言っていた。
 それでも話を聞いてくれる会社に赴くことで、支援金は着実に集まっていった。
  そしてベテラン登山家の大蔵喜福さんがアドバイザーに、毎日放送から2名のカメラマンがベースキャンプまで同行取材してくれることとなった。
 さらにスーパーの三和が、食料提供をしてくれることになった。三和はその後、レジ袋の有料化にいち早く取り組んだ環境意識の高い会社だ。
   今回のエベレストには「清掃班」もつくということで、まず感心を持ってくれたようだ。だが決定打となったのは、重役の中に山岳部出身の方がおられたことだった。
 私たちがその方に会いに行くと、彼はご自身が1960年代に海外登山遠征に行った時のことを話してくれた。
「『海外遠征』と言っても、台湾に行っただけなんですよ。それでも、あの旅が自分の『原点』だと思います」
 そして柔和な笑顔で、こうも言った。
「かつてエベレストは『国家レベル』の隊でしかトライすることができなかったんですよ。それを野口さんが、個人で挑戦するというなら、ぜひ応援したいと思ったんです。エベレストは世界最高峰と分かる前から、現地のシェルパからは崇めれらていた山。若い時に、自分の住んでいる場所とは全く違う世界に行けることは、大きなことだと思いますよ」
 彼は登頂ではなく、異世界のエベレストに行くという行為そのものに、価値を見出してくれているようだった。
 食料は、倉庫にある在庫を提供しただけると思いきや、スーパーの店頭に並ぶ商品を持って行って良いということになった。

 私たちは三和の中でも最も大きなスーパーに向かうと、レトルトを中心とした食料と、タオルや乾電池などの生活雑貨を次から次へと商品をカゴの中にいれ、レジの横に並べていった。
 ベースキャンプで、合計6名が一か月以上食べる食材と生活雑貨である。レジの隣には、満載のカゴが次から次へと並べられていった。
 買い物客たちは
「調査か? 何かですか?」
と声をかけてきた。
「いや、エベレスト遠征のためです」
と私が応えると、
「はぁ。」
 と、どう答えて良いか分からない、と言った顔でこちらを見てきた。
 これから永遠とレジ打ちをしなくてはいけない店舗のスタッフさんたちは、うんざりしたような顔つきをしている。
 そんな店内で野口は
「大石、ぼさっとするな。『合法的万引き』だ。早くカゴにいれろ!」
などと言ってくる。私は、次から次へと商品を乱雑にカゴの中へと入れていった。
 
 今になって思えば、1998年当時、ネパールでも食料は入手できた。日本から多くの物資を持参するスタイルは「国家レベル」で遠征が行われえていた60年代ものだった。しかし当時の私たちは、そのことを全く理解していなかった。
 
 そんな「合法的万引き」で手に入れた食材と雑貨は、シェアハウスに運ばれた。
 部屋には天井まで段ボール箱が積み上げられた。現地でゴミを出さないために、商品のパッケージをはがしていくとそれはゴミの山となり、商品自体もより雑然とし、一軒家は混沌とした状態となっていた。その一角にはもちろん、以前からあるハムスターやカメの飼育箱が埋もれている。
 さらにそこにミシシッピー河の下降を考えている田附のライフジャケット、防水パック、パドルなどの装備が持ち込まれると、一軒家は完璧なカオスとなった。
 一度、そこに週刊誌の記者が取材に来たことがあった。
 私が彼を駅に迎えにいくと、
「学生が共同生活をしながら、世界最高峰を目指す。すばらしいじゃないですか!」
 と言っていたが、部屋の中の混迷ぶりを見たとたん。「これは……。」と、いって言葉を失った。
 苦肉の策として、撮影はタルチョのはためく庭ですることに。
 庭にあった田附のカヌーは、私がファインダーに入らない位置に移動した。しかし、どうしても汚いボロ一軒家が写ってしまう。記者は、地面とタルチョだけが写るポジションに行こうと、2mほどあるブロック塀によじ登った。
 私たちが庭にポツンと立っていても、絵にならなかったのだろう。
「そこでタルチョに向かって手を合わせてください!」
と記者は言ってきた。
 野口と宮上と私が三人でタルチョに向かって手を合わせる。記者は続けて、
「眼も閉じてください」
 と言った。
 瞼の向こうからシャッター音が連続して聞こえる。いつまで続くんだろうか……。
 薄目を開けると、隣の家の窓が少しだけ開けられ、隣人がこちらをじっと眺めていた……。
 連日運ばれ続けた大量の荷物、庭にはためく怪しげなタルチョ。そこでお祈りをする若者たち。相当に怪しい集団として、私たちは見られていたに違いない。
 この時の記事は、週刊誌のモノクロ三面記事になったが、濃い顔の野口と怪しげなタルチョは、思いのほか目を引く写真で撮られていた。山の写真は一枚も使われていなかったため、しっかり読まないと何の記事なのか全くわからない……。これにより私たちは「怪しい集団」として、隣人だけになく、世間に紹介されることになったのだった。 
「名誉挽回」というわけでもなかったが、野口は出発前に記者会見を大学の教室を開いた。大学の広報部にも協力して頂き、案内を多くのメディアに出していたが、当日来たのは武蔵野支局の新聞記者が1名とマイナーな週刊誌の編集者が1名。記事も小さなものにしかならなかった。
 まだまだ野口は無名だった。
 だが、そんな時に、スポンサーがついていたのは、宮上と野口が、一社、一社、説明を繰り返していたからだろう。野口のスタイルは「浅く広く」ではなく「狭く深く」だった。
 数は少なかったが、サポートしてくれるどの会社ともお互いを深く理解していたからこそ、遠征はこのまま順風満帆で出発でスタートできるのだ。
と、私は感動していたが、甘かった。
 
 夏休みにはいると、装備の段ボールは飛行場へ運ばれた。とある航空会社がスポンサーとなり、私たちが乗る飛行機の「預かり荷物」として、ネパールまで無料で運んでくれる手筈になっていた。
 7月下旬、田附の出発前は、ヒッピー風の友人たちが押し寄せ、毎晩壮行会のパーティーとなった。空にした鉢植えの中で焚き火を起こすと、酔った人たちが歌いはじめ、長尾がそれに合わせてギターを弾きはじめるいうもので、非常に野趣あふれるものだった。住宅地であることなど、皆忘れていた……。
 だが、その田附が出発し、長尾も自転車の旅にでてしまうと、静けさが一軒家に戻ってきた。
 出発の前日、野口は突然、植村直己さんの家に泊まりに出かけて行ってしまった。
 ひとりになった一軒家で、私はこれから3か月にも及ぶ長い旅に思いを馳せていた。そんなに長い期間、日本を出たことはそれまでに一度もなかった。
 誰もいないリビングで「嵐の前の静けさ」のようなものを私は感じていた。
 
 翌日、飛行場に向かうと「嵐」は、すでに始まっていた。
チェックインカウンターで、航空会社のスタッフと野口がもめている。
 宮上が、私に説明した。
「数日前にこの航空会社が不祥事を起こして、『営業活動停止」』になったんだよね。健ちゃんをサポートすることも『営業活動』になるってことで、この段ボールは運べないらしい」
 宮上は冷静を装っているが、いつになく顔はひきつっていた。
 野口の甲高い声が響く。
「それはいつ決まったんですか? 運んでくれる約束をつけてたんですよ!!」
 そう言われても、チェックインカウンターの人も上からの指示なのでどうすることもできない。
「運んでくれるっていうから、しっかり梱包もしたんですよ! 全部エベレストで必要なものなんです」
 野口の声は、チェックインカウンターに響き、遠巻きに人々は眺めている。
 そこへ、出発する野口を収めようと毎日放送のカメラマンが現れた。野口はカメラに向かって、
「離婚でもなんでも、退職でも、届けを出すじゃないですか。今回は、解約書は書いていないわけでして」
 早口だからなのか、声が高いからなのか。あるいは内容に説得力がないからなのか、私は、野口から「悲壮感」というものをまったく覚えなかった。宮上とは対照的に、野口には、どことなくその危機的状況を楽しんでいる雰囲気があった。
 だが、話の進展はなく、出発の時間は、刻一刻と近づいていく。
 その時、野口が突然振り返ると、私を見ていった。 
「大石!! ダンボ―ル箱を開けて中身を出せ」
「えっ???」
 私が戸惑い、何もしないでいると、野口がフロアをカツカツと歩いてきてまた言った。
「中身をフロアに開けて、何が入っているか、航空会社の人に見せてやれ!!」
 その時、野口は冗談で言ったのか? 本気だったのだろうか? 今となっては知る由もない。だが、四半世紀以上過ぎた今にして思う。「大変に申し訳なかった」と。
 まだ私は18歳で、常識を知らなかったのだ。
 私は段ボールのガムテープをはがし、思いっきり中身をひっくり返した。綺麗なフロアに食料品や雑貨が、転がっていく。
 二つ目の箱の段ボールも開けた。
「これ全部、エベレストで必要なものなんですよ」
 野口の甲高い声が、また聞こえた。私は、中身をフロアにひっくり返す。
あの時、確か、野口は私を止めなかったと思う。やっぱり野口は本気だったのだろう。
 10箱あるうちの半分は、ひっくり返しただろうか。
 ようやく野口が、
「大石、もういいよ」
 と言った。
 気が付くと白い空港のフロアは、カラフルなお菓子やレトルトパックやらで、武蔵野シェアハウスのように、混沌としたものに変わっていた。
 結局、無料とはならなかったが、多少値引きしたかたちで荷物は運んでもらえることになった。
 まだ「ニューヨーク同時多発テロ」が起こる3年も前の1998年。空港の警備はそれほど厳しくはない時だった。今なら、すぐに警備員さんに取り押さえられていたであろう。 
 もっともその当時としても、モラルとしては、許される行為ではなかったと思うが……。
 ダンボール箱に食料と装備を入れなおし、急いで搭乗口へ向かったが、すでに出発時間は大幅に過ぎていた。
 私たちが乗るとすぐに飛行機は飛び立った。眼下に光る炎天下のビル群が、どんどん遠ざかっていった。
 
 それから8年後―—。
 田附の結婚式に私と野口は招待された。
 私は、社会人になっていた。
 その結婚式会場で、唐突に、私はこの空港のことを思い出していた。
 少し前に「マツケンサンバ」が流行っていて、余興では「ノグケンサンバ」をしようということになり、野口健(ノグケン)と私は宴会会場の外でバカ殿のような恰好をしていた。
 会場に野口は花びらを投げながら登場しようとした。
 だが、結婚式会場のスタッフの「それは掃除が大変なので、やめてください」という言葉に
「そりゃあ、そうですよね。やめときます」
 とバカ殿の姿をした野口は、真剣な顔で応えていたのだった。
 飛行場の時を突然思いだしていた私は、あのときのように、なんでも投げたかったのだが……。
 もうその時点で、野口は、あの日、あの空港で、私たちが装備をまき散らしたことなど、全く覚えていなかったのだろう。
 だが私には、エベレスト遠征が鮮烈すぎたせいか、その出発地点となった飛行場のことは今も克明に覚えている。
 自分の「原点」が、そこからはじまったのだった。

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