連載第9話 スポンサー活動への同行
18歳の時だった。
静岡の港町から上京し、私は武蔵野にある大学に通っていた。はじめは自分でアパートを借りていたが、すぐに山岳部が共同生活をする古い木造一軒家に引っ越しをした。野口健、田附秀起、長尾憲明という先輩方がそこに住み、マネージャーの宮上邦子が、そこに入り浸っていた。
1998年当時、「七大陸世界最年少記録」を目指していた25歳の野口健は、その夏、七つ目のエベレストに登頂するという目標を持っていた。
まるで青春映画のような激しいトレーニングと、計画遂行のためのミーテング。それが毎日繰り返されていればドラマになるのだけど、現実は全く違っていた。
野口の思い付きで計画されたハードなトレーニング合宿は、彼の気分でいきなり生ぬるいものとなった。そして前回もこの連載で書いたように、彼は夢見る新入生の私に向かって、
「トレーニングとスポンサー活動だけで、一年が過ぎてしまった。エベレストだけで、こんなに時間をとられるなんて人生を無駄にしている気がしてならない」
などというネガティブ極まりない言葉を吐いたのだった。
その「スポンサー活動」は、マネージャーの宮上邦子が、かなりの部分を行っていた。小柄で丸顔で目が大きく、漫画のキャラにでてきそうな人だったが、そのおっとりとした見た目に反し、バチバチとものすごい勢いでキーボードをたたき、学生らしかぬビジネスライクな会話で企業の人と携帯で話をする人だった。
エベレスト遠征出発まで2カ月を切っており、スポンサー企業は何社か決まっていた。ある日、宮下と私は、用具提供をして頂くことになったアウトドアメーカーに足を運ぶことになった。
「都心の会社のオフィスに行くんだから、きちんとした格好をして」
そう宮下に言われたが、当時の私は、ボロボロのジーンズに、くたびれたTシャツやスウェットしか持っていなかった。そう言うと野口が、自分のブレザーを私に貸してくれた。
「上京した」と言っても私が住んでいたのは、まだ森が点在していた武蔵野だった。宮上と都心に行って、初めて「東京」に来たという実感が持てた。大学の同級生たちは、ファッションや、酒や、クラブの話をしていたから、毎週のように都心に出かけていたのだと思う。だが、私は誘われることがなかった。都会的センスの全くない18歳だったのだと思う。
宮上と一緒に新宿ビル群のオフィスに行き、広報部の方とエベレストで使う用具の話をした。宮下は標高8000mで使うような特殊なウエアを私の分までお願いしてくれていた。だが標高5000mのベースキャンプのすぐ上には、垂直の巨大氷が乱立する「アイスフォール」と呼ばれる核心部があり、初心者の私はそこを越えられないと自分で分かっていた。
会議室で、私は何度も宮下から厳しい視線を向けられたが、なぜそんな目をしてくるのか全く分からなかった。
帰りは新宿駅南口を出て、遊歩道を歩いた。
「ここは『サザンテラス』って言われてて、今年できたばかりなんだ」
その遊歩道の最後のほうにあった宮上が好きだというカフェに入る。
コーヒーの上にたくさんクリームの乗った、デザートのように甘いコーヒーだった。コーヒーカップに描かれていた「緑色の人魚」のデザインが独特で印象的だった。座ると、宮下はすぐにこう言った。
「大石君、もう少し敬語ができるようになった方がいいよ。私ははずかしかったよ」
会議室での厳しい視線は、そういう意味だったのか。そこで初めて気が付いた。
「そんなに敬語できてない?」
「できてない。できてない。でも大石君は、色々きちんとするのとか、全くやる気なさそうだよね。」
そこから宮下は、いきなり、敬語とは全く違う話を始めた。
「だったらアメリカに行ったら。あっちはラフだから。うちの大学にはアメリカプログムというのがあって、ワシントン州に一学期だけ行けるのがあるから、応募してみれば。あっちの方が大石君はあってるよ」
意味がわからずに私が生返事をしていると、宮下はこう続けた。
「私も大学2年の時に行ってきたんだよ。ワシントン州はコーヒーの州でもあって、大学のキャンパスの中に、このコーヒーの店があったんだ。東京には、ここにしかないみたいだけど」
店内を改めてみると「STARBUCKS」というロゴがあり、この店の名前なのだろうと、その時思った。
ワシントン州にあるこのコーヒー店で、宮上は、現地の友達から英語を教えてもらったと言った。
「ヒマラヤの村もそうだけどさ、日本じゃない別世界もあるってことが、アメリカに行くとわかるよ」
そう宮上は言った。だが私にとっては、目の前の新宿のビル群も、オシャレな遊歩道も、十分に「別世界」だった。
武蔵野のボロ一軒家に帰ると、野口が居て、その日の報告を宮下がした。
「大石君がさぁ、会議室で『一番高い登山靴を下さい! 一番高いやつを!!』とか言って大変だったんだよ」
敬語をうまく使えなかったのは事実かもしれないが、そんな発言をした記憶は全くない……。
その一週間後、急に新たなスポンサー候補の会社が現れた。都心にある健康器具と化粧品のメーカーだった。だが、偶然にも、社長宅は通っていた大学の反対外にあった。ボロ一軒家から歩いて行ける距離である。
野口と宮上と私は、その自宅でのディナーに何度も呼ばれるようになった。
会長である70代の女性と、50代の副社長の女性に毎回料理を出してもらった。社長はいつも不在だった。
リビングの壁の棚には、高級そうなワインボトルがいくつもあった。
「この年代のこのワインはなかなか手にはいらないのよ」そんなことを話しながら副社長の女性は、高級そうなグラスにワインを注いでくれた。隣の会長は「でも何を飲むかよりも、誰と飲むかが重要なのよ」と返す。
しかし、そもそも1000円の安いワインしか飲んだことがない私には、そのワインがうまいのか、まずいのか、全くわからなかった。
毎回、野口は、そこで前年のエベレストの話をした。ボロ一軒家では「エベレストだけで、こんなに時間をとられるなんて人生を無駄にしている気がしてならない」と言うようなネガティブなコメントしかしていなかった野口だったが、そこでは勢いよく、
「前回は『敗退』ではなく、一時的な『撤退』です」
と何度も繰り返した。
そして、
「今年は必ず登頂します」
そんなポジティブな言葉だけを発した。
何回か通うなかで、野口は酔いが回ってしまった時もあり、公募隊に同行していたカメラマンと馬が合わなかったことを話したこともあった。その帰り道、宮上は、
「ああいう場で、愚痴みたいなことを話すのは良くないよね」
と野口に言い、野口はそれに反論せずに。
「そうだな。愚痴は良くないな。うん、良くない」
と答えていた。そんな風に、小柄で年下の宮上が、先輩の野口をコントロールしているような瞬間は度々あった。
ある日は、会長の誕生日だった。私は宮下に「一番安いので良いから花束を買ってきて」と携帯で言われた。私が近くのお花屋さんで、適当に安い花束を買っていくと、宮上に
「私は『一万円ので良いから!』って言ったんだよ!』
と怒られ、結局、再び買いにいくことになった。
花束に一万円も使うとういう概念が私にはまったく、レジでお金を払う時には、手が震えていた。
しかしそれを、会長に渡すと
「この花とこの花は色が合わないわね」そして、こう続けてきた「人にものを上げるときは、もっとしっかりした店で、しっかりしたものを買うのよ」
私は「一万円もしたんですよ!」と言う言葉を飲み込んでいた。その気配を会長はきっと感じていたのだろう。会長は私に、こう言った。
「人生100%金よ。99%じゃないの。100%なのよ」
一体自分は、なぜこんなところにいて、こんな人と、なぜこんな話をしているのだろうか? 私は現実感を失いそうになっていた。
しかし、野口は冷静だった。まさに彼女の言う「金」がなければ、エベレストには行けないのである。
その日、会長の前で、野口は緊張を見せず、高揚することも、逆にネガティブになることもなかった。
野口は、私が全く聞いたことがなかった前年のワンシーンを、理路整然と会長と副社長に、訥々と語りはじめた。
それは具体的に言えば「エベレスト挑戦」の話ではなく、登頂を諦め、ベースキャンプに降りて来たあとの話だったー―。 (つづく)
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