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第七話 光り輝くエベレスト登山計画

 そんなわけで(前回参照)、突如として野口健の家に現れた長尾は、そのままそこで住み始めることになった。
 長尾は、2階の4畳半の部屋を割り当てられたが、その部屋にはほとんど行かず、1階のリビングで黙々とテレビを見続けていた。
 深夜までずっと見つづけ、そのまま寝落ちしてしまうことがほとんどだった。
 飽きれた野口が
「そんな見ててよく飽きないな」 
 というと、
「これまで家にテレビがなかったんです」
 と長尾は言った。
 こんな奴がまだ現代の日本にいたのか、と野口は思っていた。


長尾の自転車アメリカ蛇行横断

 たまに寝落ちせずに2階に帰った時は、長尾は必ずボブディランの弾き語りしていた。「乞食のような」姿に似合わず、歌とギターはかなりうまかった。
 だが、さすがに深夜である。
 2階の住人は、田附と野口の会話のうるささからすでに転居していて、残るは一人になっていた。その最後の一人も、長尾の入居後、すぐにいなくなった。

 ギター同様、自転車もかなり使いこんだものだった。
 野口と田附が聞くと、長尾はその自転車で、4万キロを走ったと言った。
 日本一周とアメリカ横断をしたという。
 日本は「縦断」ではなく「一周」。つまり、北海道から日本海側を南下し鹿児島まで到達した長尾は、そこからUターンして今度は太平洋側を北上し、北海道まで戻ったそうだ。
 アメリカは一直線に走ったのではなく、ジャズやカントリーソングの聖地を回りながら、北へ、南へ、蛇行しながら走行。横断に、実に4カ月も要したという。
 夜は、適当な場所に寝袋を広げて野宿をしていた。大都会の公園のベンチ、大山脈の峠、大草原、岩砂漠、大河の河原、田舎町の一本しかないメインストリートの脇……。そんな場所での野宿は、強盗よりもピストルを手に職務質問してくる警察の方が怖かったそうだ。
 その旅での用具が、長尾の全財産だった。「テレビがない」どころではない。ほとんど何も持っていなかったのだ。
 だから、シャエアハウスに引っ越しをするときも、車など使わず、自転車だけで終わった。
 この20年後の2020年代、「断捨離」や「ミニマリスト」という言葉が流行るのだが、長尾は、それを随分と先取りしていたことになる。


実は「耐寒訓練」だった

 一年中、Tシャツ、短パン、サンダルで暮らしていたのには、論理的な理由もあった。
 アメリカを旅した時、長尾はいくつもの高山を目にしていた。衝動的に登りたくなり、いつくかの山にはトライした。しかし山頂付近はどの山も深い雪で、登頂は叶わなかった。
 長尾は再びアメリカに行き、リベンジを果たすつもりでいた。
 そこに登るためにはまず「耐寒訓練」をしなくてはいけない。だから、真冬の大学でもTシャツとサンダルでいたという。
「お前はアホかぁ!!  耐寒訓練なんてしなくても、登山ウエアを着れば山でもそんなに寒くないわい。東京の冬で短パンサンダルの方がよっぽど寒い!」
 辛辣な田附が言った。しかし行動は優しい。
 田附は使い古しの登山用のウエアをあげた。
 家賃的にも生活レベル的にも「普通以下」のシェアハウスだったが、そこに引っ越しをし、登山ウエアを着たことで、急速に長尾は「普通の人間」レベルに近づいていった。彼は、
「なんか最近、大学に人が増えた気がしますねぇ。歩いていてぶつかりそうになることもあるですよ」
 などと言っていたが、人が増えたのではない。
 長尾を避ける人が減ったのだ。


 アメリカの高山を目指す長尾がしていたのは、「耐寒訓練」だけではなかった。
 8階建ての大学の図書館の階段を重たいリュクを背負って何往復もしていた。
 そして、近くの小金井公園でランニングと水泳を行っていた。当時、300円で使える屋内プールがそこにはあった。
 野口は、長尾のトレーニングに付き合った。
 長尾の体力は脅威的だった。
 すでに「六大陸最高峰登頂」の実績を持っていた野口である。自分が「乞食」だと思っていた人に「もうちょっとゆっくり走ってくれ!」などと言うのはプライドが許さない。意地で長尾についていき、涼しい顔を装った。
 そうするうちに、形状記憶合金が元の形になるかのように、野口の体力は戻っていった。

スポンサーと公募登山

 ウエアを着た長尾は「最近、大学で友達が増えたんですよねぇ」とも言っていったが、野口にも「気運」が回ってきた。
 トレーニングと並行して企業へのスポンサー活動を野口ははじめていた。マネージャーの宮上が電話をし、アポイントが獲れた会社に、野口がスポンサーになってもらえるように、話を持ち掛けていた。
 その活動で数社が資金提供をしてくれることになったのだ。
「新型ムービーカメラをエベレストでテスト撮影してもらえる条件で」
 と、スポンサーに名乗り出てくれた某有名メーカーの金額は、特に大きかった。担当の社員は、
「これで極限の映像を収めてください」
 と言って、当時としては驚異的に小さい「パスポートサイズ」のビデオカメラを野口に渡してくれた。

 さらに、格安でエベレストに公募登山を出すことになったニュージーランドの会社とも、うまくインターネットで連絡がとれた(97年当時、まだまだネットも公募登山も、一般的ではなかった)。
 その公募隊では、欧米人を中心に十人ほどの登山家が集まり、高所ポーターを使い、チベット側(北側)からエベレストを目指すことになっていた。
 野口と田附は、その公募隊に参加し、エベレストを目指すことに決めた。

 公募隊の集合場所はチベットの首都ラサ。
 その集合日まで2か月を切っていた。
 この短い時間で、野口は体力をあげなくはならなかった。エベレストの薄い空気に耐えられる高所使用の特殊な体力をである。
 そこで野口が考えたのは、ネパールの標高4500mにある村に一か月滞在して、高所トレーニングをすることだった。
 長尾にもそのトレーニングに一緒に来てくれるようにお願いした。
 長尾にとってみれば、4000mクラスのアメリカの山を目指していたのが、いきなりその標高までいけることになったのだ。しかもそこに「滞在」する。
 イメージのわかない長尾が
「そんな高所に村があんですか?」
と野口に聞くと、
「人間はどこにでも住んでいるんだよ」
 と、返された。意味が解らなかったが、長尾は行くことを即決していた。
 アメリカで警察に銃口を向けられたことに比べれば、4500mの辺地の村も怖い場所ではなかった。

 毎日のトレーニングの後、シェアハウスで、野口と田附と長尾は、軽くビールで乾杯をしていた。
 以前のような「泥沼」のような飲みではなかった。
 未来は、もはや「暗闇」ではなく、エベレストという「輝き」が待っていた。窓の外には、春めいた夜の風に、庭のタルチョが揺れていた。

 エベレスト直前の一か月にわたる4500mでのトレーニングも、チベット側から目指す格安の公募隊も、全てがうまくいかず、ビデオカメラには無残な敗退の映像が残ることなど、その時、野口は微塵も予想していなかった。


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