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父母の記録

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父母の覚悟を見届けた。記録しておかなければ。
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記憶を失っていく、それでいい

記憶を失っていく、それでいい

≪失っていく過程≫

施設に何年もいることになった母は自宅に帰りたがった。父は「帰ってどうするだ」といさめていたが、父だって帰りたかった。母は「おじゃんぼん(葬式の方言)で帰れる」と言って諦めていった。その後、父に言われたのか帰りたいと言わなくなったのが却って哀れであった。
遠方で働いていた私は医師を辞めて帰ることも考えたが、地元にいた兄が亡くなったばかりであり、兄の妻もがんで入退院を繰り返してい

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耕治人『そうかもしれない』

耕治人『そうかもしれない』

耕治人『そうかもしれない』の一節に私は涙を流す。
耕は80歳を越え舌癌を患って入院した。食べることがひどい痛みを伴い痩せていき、40kgを切るようになる。そんな耕を認知症で施設に暮らす妻が職員に伴われてやって来る。
車椅子の妻に職員は「この人は誰ですか?ご主人ですよ」と何回も尋ねる。妻はわからないのか黙っている。
何回か言われて、最後に低い声で「そうかもしれない」とつぶやくのだ。

向かい合う耕は

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食べない母に食べさせようとした後悔

食べない母に食べさせようとした後悔

母はだんだん衰弱し、ついに軽い脳梗塞で入院した。入院後、だんだんしゃべらなくなり、食事もとれなかった。そのうち、発熱し、誤嚥性肺炎と診断された。経鼻胃管を提示されたが、拘束が必要になるため、断った。いわんや胃瘻は母の意思に反する。
とろみのついた水、おそろしくまずいゼリーが供された。リハビリ専門職員が口元までスプーンを運ぶが、口をつぐんでいる。食べなきゃと言って、私も試みるが唇は閉じたままである。

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「おやげねぇことした」謝る母

「おやげねぇことした」謝る母

介護施設に入ってから、記憶もあやふやとなってきている母が、突然、「〇〇オ(長男)に謝っておかなきゃ」と言い出した。
長男が小学生時、登校前に玄関を掃除するのが仕事だったが、その日はしなかた。母は皆と連れ立って登校しようとしていた長男を連れ戻し掃除をさせたという。それを「おやげねぇことした」と悔やんでいる。半世紀前のこんなに些細なことをなぜ今になって悔やんでいるのか。
思い当たることが一つあった。長

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「幸せな老後」は考えないほうがいい

「幸せな老後」は考えないほうがいい

「幸せな老後」なんて考えないほうがいい。どうあれば幸せかなんて思い始めるのが不幸の始まりだ。紙に書きだすなんて最低だ。足りないものがたくさん見つかるし、10年後生きているかもわからない。「生きている、たぶん」程度。
カチャーセンターに毎日行けば、2000万円の貯金があれば、孫がかわいければ、幸せというわけはない。
カルチャーセンターで自信作が最低評価だったり、買ってきた卵が全滅だったり、孫はよりつ

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アメリカに馬を買いに行く

アメリカに馬を買いに行く

≪火つけて帰りな≫

小さいころ、裏の小屋で黒い肉牛を飼っていた。私は馬のほうがかっこいいと思い、馬を買ってくれとせがんだ。父は諦めさせるために「馬はアメリカでしか買えない」と言った。私は「じゃあ、アメリカに馬を買いにいく」と言い張ったらしい。
小学生も高学年になると、馬は日本でも買えるらしいことを知ったが、依然アメリカは憧れの国であった。
中学生になると英語の授業がはじまったが、外国人には会った

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父はシベリアに4年間抑留された

父はシベリアに4年間抑留された

≪満蒙開拓団青少年義勇軍≫

1940年父は14歳で満蒙開拓団青少年義勇軍となった。農家の三男であり、夢の大陸で開拓をという教師にそそのかされてひとり渡満した。当時の身長は142㎝、体重40㎏との記録がある。子供ではないか。
17歳の時、父の父親が死亡するが、関東軍の指示で帰国できない、兵隊に行ったと思って諦めてくれという故郷に宛てた手紙が残っている。
1945年5月、19歳でいわゆる根こそぎ動員

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1949年、舞鶴に帰ってきた

1949年、舞鶴に帰ってきた

父は敗戦後4年間シベリアに抑留され、1949年にぼろぼろになってやせ細って舞鶴まで帰って来た。農家の3男坊であった父は、5人姉妹であった母と結婚し婿養子となった。
父も母も働き者であった。米作り、養蚕、たばこの葉栽培、加工トマト栽培、朝から夕方暗くなるまで働いていた。子供も働いた。日差しで温められた脱穀後のわらの上で寝てしまった気持ちよさを覚えている。桑の葉をもぎ取り、トラクターにあふれんばかりに

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料理ができなくなった母

料理ができなくなった母

80歳を越えると、父も母もひとつずつ諦めていった。
母は歩けなくなった。暗くなるまで桑の葉をもいでいたのに。編み物ができなくなった。私のセーターを編んでくれ、それをまたほどいて父のベストに編み直したのに。ミシンがかけられなくなった。肥満気味の自分の服も父の甚平も季節ごとに作っていたのに。記憶がこぼれ落ちていった。
料理もできなくなった。私の帰省のたびに、たくさんのじゃがいもをふかして、山盛りのコロ

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「幸せな老後」はうさんくさい

「幸せな老後」はうさんくさい

父母が介護施設に入ることを決定づけた出来事があった。母はベッドに寝ていたが、夜間トイレまで歩いていくことが困難となり、寝室にポータブルトイレを置いていた。朝その処理をするのが父の役割になっていた。
ある夜、母はベッドと壁の隙間にはまり込んでしまった。私の夢を見て、ねぼけて、子供の私に布団をかけようとしたという。私は、こたつでも、廊下でも、畑でも、どこでもすぐ寝てしまう子供であった。
母ははまり込ん

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