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料理ができなくなった母

80歳を越えると、父も母もひとつずつ諦めていった。
母は歩けなくなった。暗くなるまで桑の葉をもいでいたのに。編み物ができなくなった。私のセーターを編んでくれ、それをまたほどいて父のベストに編み直したのに。ミシンがかけられなくなった。肥満気味の自分の服も父の甚平も季節ごとに作っていたのに。記憶がこぼれ落ちていった。
料理もできなくなった。私の帰省のたびに、たくさんのじゃがいもをふかして、山盛りのコロッケを作ってくれたのに。
鍋を焦がし、味噌汁の味がおいしくなくなり、おかしな具がはいっていた。手際よく、たくさんの人をもてなして、大雑把に一升瓶の醤油で絶妙な味付けをしていたのに。
母が切なそうに言った。「娘が帰ってきても、好きなものも作ってやれないのか」と父に言われたという。何てことを言うのだと私は父を恨んだ。しかし、父も次々と諦めていっていた。畑仕事ができなくなり、目が見えなくなり、耳が遠くなり、庭は草ぼうぼうだ。「おまえもか、俺もだ」という気持ちだったろう。
料理ができなくなり、ケアマネジャーは宅配弁当を手配してくれたが、一週間で飽きてしまった。味も栄養も彩りも考えられているのに、梅干しのごはんのほうがいいと言う。
宅配弁当には過剰や不足がない。魚や煮物、デザートまでみんな小さな器に収まっている。整いすぎている。ああそうだ、と思い出して漬物が追加されることもない、レンジに忘れられた煮物が最後に供されることもない。誰が食べるのだというどんぶりいっぱいの煮っころがし、大皿の漬物もない。自分の味付けを問うこともない。父も母も、そこにいない何十人も同じサイズの同じ味を食べている。効率のため冷凍食材が使用されている。父母は自分の作った野菜の味がいいのだ。
兄によると施設に入ることを、父も母もすんなりと同意したという。もう限界だ、お迎えが来るまで少しの間だ、と思ったろう。何年も施設にいることになり、さらに少しずつ、できることができなくなり、父は母を送り、肉体を使い切ってあちら側に行った。俺はやるだけやった、ようやく迎えが来てくれたという思いだったかもしれない。


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