隠淪医

定年となった勤務医。医者になる前は学術誌の編集をしていた。記憶の断片がときどき鮮明に浮…

隠淪医

定年となった勤務医。医者になる前は学術誌の編集をしていた。記憶の断片がときどき鮮明に浮かんでくる。この限られた脳の中になぜ何年も残っているのかその意味を考える。もういない患者さんや友人に謝罪したいこと、死んでしまった両親の言葉、私しか知らないから死んだらおしまい、書いておこう。

最近の記事

人間臨終図鑑:人間は死ねば生きてるやつに何をされても無抵抗である

山田風太郎『人間臨終図鑑』を読んだ。 寝っ転がって、完全に無責任に他人の死に方を覗き見た。  古今東西の有名人の死が、死んだ時の年齢順に並べられている。 若い世代の予想外の死よりも、よれよれになってからの死のほうがしみじみとする。 こんなに生きてきて、後世に名を残し、最後に心配することは何か。 死を恐れながら、望ましい死に方を妄想し、準備をする、その真剣さ滑稽さ切なさ。 86歳で死んだ明治の軍人は、晩年、身体が不自由となり最後に望んだこと「死んだら墓は縦にしないで横にして

    • 正岡子規:正岡律の強くて静かな介護

      正岡子規の妹、正岡律に強く惹かれる。早坂暁は「最強にして最良の看護人」と評した。 子規は肺結核から脊椎カリエスとなり、六畳間に寝たきりとなる。背中にはいくつも穴が開き脊椎カリエス病巣からの膿がじくじくと出てくる。 子規ははじめて腹部にできた穴を見たとき、小さな穴と思っていたら、がらんどうとなっていて、気持ち悪くなり泣いたと書いている。 律は毎日悪臭を伴うガーゼを替える。食事の支度、下の世話は言うまでもない。 そんな律に対して、子規は「強情」だの「気が利かぬ」だの、はては「精

      • 耕治人『そうかもしれない』

        耕治人『そうかもしれない』の一節に私は涙を流す。 耕は80歳を越え舌癌を患って入院した。食べることがひどい痛みを伴い痩せていき、40kgを切るようになる。そんな耕を認知症で施設に暮らす妻が職員に伴われてやって来る。 車椅子の妻に職員は「この人は誰ですか?ご主人ですよ」と何回も尋ねる。妻はわからないのか黙っている。 何回か言われて、最後に低い声で「そうかもしれない」とつぶやくのだ。 向かい合う耕は打たれたようになる。 妻は何かを感じたのだと私は思う。目の前の人が誰だかわから

        • うちのルンバちゃんがサボり始めた

          我が家のルンバは働き者である。とても呼び捨てになんかできない。 媚びた声で「ルンバちゃん」と呼びかける。 一代目のルンバは長いこと勤めてくれた。褒めたら伸びるタイプで、バスマットや玄関マットを放り出して頑張って掃除していた。  電気コードを飲み込み、おえおえしていた時は、コードを放置した私が悪かったと、口からひっぱり出してあげた。 「あー、スッキリした、今度から気をつけてくれよ」というふうであった。 数年が経った。ルンバちゃんはわずかな段差が登れなくなった。 ベースに戻れな

        人間臨終図鑑:人間は死ねば生きてるやつに何をされても無抵抗である

        マガジン

        • 記憶を残す
          7本
        • ひとり旅
          5本
        • 医者の後悔
          16本
        • 父母の記録
          10本

        記事

          絵自慢が手長エビと蛍の絵を描いた

          私は絵に自信があった、はずだった。 イタリアのシチリア島に旅した時のこと。手長エビのリゾットが食べたいと思った。 翻訳アプリがない時代である。手長エビの絵を描いて、レストランで聞いてみることにした。ハサミを持った長い手、エビの甲羅としっぽ。うまく描けた。手長エビにしか見えない。 二、三軒回って、これが食べたいと絵を見せても、置いてないと言われた。本場なのにどういうことだ。アジア人差別かとさえ思った。 次の店で「スコーピオン?」と聞かれた。scorpion??サソリだって??

          絵自慢が手長エビと蛍の絵を描いた

          暖かい藁の上で死にたい

          一日の陽を浴びて、芯までぬくぬくとなった藁の束の上で死にたい。 3歳か4歳か、60年以上前の記憶だ。 父は脱穀機を踏み、舞い上げた藁のほこりの向こうに見える。 母が大声で父に話しかけているが、かき消されている。 拾った落穂を焚き火にくべると米が白く弾ける。甘く香ばしい。  田んぼを走りまわって、落穂ひろいにも飽きて、畦に積み上げられた藁の束の上に大の字となる。空と太陽しか見えない。瞼を閉じても太陽が見える。藁は芯まで暖かい。眠りに落ちる。 仕事を終えた父が私を抱き上げる。父も

          暖かい藁の上で死にたい

          もう一度痛いと言うとおみ

          道後温泉に正岡子規博物館がある。鼻の低い子供であったと紹介されている。母八重は子供の子規が鼻の低い低い妙な顔の子供であったと回想している。 子規は結核療養中に夏目漱石宅に居候していたことがある。喀血した肺結核である。レントゲンもなかった時代だが肺には沢山の空洞があったろう。感染性が高い。漱石に感染したのではと心配になったが、そのときすでに漱石の兄3人が結核を発症し、そのうち二人は亡くなっていたらしいので、漱石も感染していたと思われる。 その時代、日本人の多くは感染していた

          もう一度痛いと言うとおみ

          儀式が嫌いすぎる、サプライズは勘弁してほしい

          こどもの頃はバースディケーキなんて食べたことがなかった。存在さえ知らなかった。特に貧乏ではなかったが田舎だったから、ときどき母が重い鋳物で焼いてくれた巨大な煙突パンが最高のおやつだった。誕生日もこの煙突パンだ。こどもには浮き輪の大きさに見えた。誕生日が嬉しかったのはそこまで。 今では現在〇〇歳か、あるいは誕生日で〇〇歳になるのかさえあやしい。誕生日のロウソクも通夜のロウソクも大差ない。 誕生日を迎えると、残された時間が現実的となる。ある大数学者は「誕生日会という通夜」と言っ

          儀式が嫌いすぎる、サプライズは勘弁してほしい

          赤鬼、青鬼が老鬼となって再会した

          『泣いた赤鬼』はざわざわする心地がする。 青鬼の提案は本心か、まさか赤鬼が同意するとは思っていなかったかも知れない。そんな提案をして赤鬼を試したのでないか。 赤鬼にたたかれながら、自分が犠牲になって赤鬼を助けていることへの、少しの陶酔感がなかったか。 旅に出たのは、赤鬼と離れたかったかも知れないし、赤鬼を試した自分を恥じたからかも知れない。 人間と飲み食いしながら「そういえば、最近、青鬼が来ないな」なんて赤鬼は能天気にもほどがある。 人間は物珍しさで赤鬼を訪れるがすぐ飽きて

          赤鬼、青鬼が老鬼となって再会した

          酢豚作りモリモリ食ったブス

          酢豚が好きである。酢豚を食べる時、必ず「酢豚作りモリモリ食ったブス」という一文が浮かぶ。          スブタツクリモリモリクツタブス これは秀逸な回文である。編集者時代にある数学者から教えていただいた。いかがわしいものではない。杉本秀太郎『日本語の世界14/散文の日本語』(中央公論社)に紹介されている。 あまりに完成度が高く感動したので、この一文のためにその書籍を買い求め、いまでも手元にある。 この一文から、見事な光景が浮かぶ。食欲旺盛、健康的で、好きなものは好きという

          酢豚作りモリモリ食ったブス

          まな板の上の肛門は諦めた

          大腸内視鏡検査はいやなものだ。勤務先の病院で受けるなんて言語道断。お尻をみせながら同僚とどういう会話をするのだ。 あの恐ろしくまずい下剤を2リットルちかく飲むのはがまんしよう。患者さんには当然のように指示するのだから。 しかし、あの屈辱的検査着を着て肛門を差し出すなどマウンティングされてる猿の状況だ。相手が圧倒的に優位な立場にある。 不特定多数の肛門のひとつとしてこっそり検査を受けたい。ネットで少し離れた病院を探した。 受付に行くと、「あら、先生」。前の病院にいた看護師さんだ

          まな板の上の肛門は諦めた

          食べない母に食べさせようとした後悔

          母はだんだん衰弱し、ついに軽い脳梗塞で入院した。入院後、だんだんしゃべらなくなり、食事もとれなかった。そのうち、発熱し、誤嚥性肺炎と診断された。経鼻胃管を提示されたが、拘束が必要になるため、断った。いわんや胃瘻は母の意思に反する。 とろみのついた水、おそろしくまずいゼリーが供された。リハビリ専門職員が口元までスプーンを運ぶが、口をつぐんでいる。食べなきゃと言って、私も試みるが唇は閉じたままである。そんな力があるのかという真一文字。開けられないのではなく開けないのである。 嚥下

          食べない母に食べさせようとした後悔

          「おやげねぇことした」謝る母

          介護施設に入ってから、記憶もあやふやとなってきている母が、突然、「〇〇オ(長男)に謝っておかなきゃ」と言い出した。 長男が小学生時、登校前に玄関を掃除するのが仕事だったが、その日はしなかた。母は皆と連れ立って登校しようとしていた長男を連れ戻し掃除をさせたという。それを「おやげねぇことした」と悔やんでいる。半世紀前のこんなに些細なことをなぜ今になって悔やんでいるのか。 思い当たることが一つあった。長男が高校の時、訳知り顔の知人に「長男を大学にやると、もう地元には帰ってこない」と

          「おやげねぇことした」謝る母

          「幸せな老後」は考えないほうがいい

          「幸せな老後」なんて考えないほうがいい。どうあれば幸せかなんて思い始めるのが不幸の始まりだ。紙に書きだすなんて最低だ。足りないものがたくさん見つかるし、10年後生きているかもわからない。「生きている、たぶん」程度。 カチャーセンターに毎日行けば、2000万円の貯金があれば、孫がかわいければ、幸せというわけはない。 カルチャーセンターで自信作が最低評価だったり、買ってきた卵が全滅だったり、孫はよりつかないかもしれない。不幸の種なんて探せばいくらでもある。大きな不幸が来ませんよう

          「幸せな老後」は考えないほうがいい

          「異常ありません」で生還する

          肺がん検診では胸部エックス線検査で、がんの可能性がある陰影を「要精密検査」とする。受診者はその結果を見て驚き、病院でCT検査を受ける。みんな、「自分は肺がんになってしまった」と、硬い表情で診察室に入ってくる。 胸部エックス線検査の写真には、小さな陰影や淡い陰影、以前からの古い陰影、骨、乳房など、無数の要素が写りこんでいる。そのなかで、肺がんを否定できない陰影を要精密検査とするのであるが、その陰影が本当に肺がんである確率は数%程度である。 CT検査後「異常ありません」と伝えたあ

          「異常ありません」で生還する

          「幸せな老後」はうさんくさい

          父母が介護施設に入ることを決定づけた出来事があった。母はベッドに寝ていたが、夜間トイレまで歩いていくことが困難となり、寝室にポータブルトイレを置いていた。朝その処理をするのが父の役割になっていた。 ある夜、母はベッドと壁の隙間にはまり込んでしまった。私の夢を見て、ねぼけて、子供の私に布団をかけようとしたという。私は、こたつでも、廊下でも、畑でも、どこでもすぐ寝てしまう子供であった。 母ははまり込んだまま起き上がれなくなり、父に助けを求めたが、父は眠っており耳も遠い。やっと気づ

          「幸せな老後」はうさんくさい