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もう一度痛いと言うとおみ

道後温泉に正岡子規博物館がある。鼻の低い子供であったと紹介されている。母八重は子供の子規が鼻の低い低い妙な顔の子供であったと回想している。

子規は結核療養中に夏目漱石宅に居候していたことがある。喀血した肺結核である。レントゲンもなかった時代だが肺には沢山の空洞があったろう。感染性が高い。漱石に感染したのではと心配になったが、そのときすでに漱石の兄3人が結核を発症し、そのうち二人は亡くなっていたらしいので、漱石も感染していたと思われる。

その時代、日本人の多くは感染していた。
結核は感染と発症は別だ。当時は感染するかしないかではなく、発症するかしないかの問題だ。

子規は肺病だから家に置くのはやめなさいと、漱石に忠告する人もあったらしいが、漱石はまぁいいかと居候させ、子規と毎夜、俳句作りをする。

結核が脊椎に及び脊椎カリエスとなって動けなくなっても、人は子規のもとに集う。そこで感染した文人もいたであろう。痛い、痛い、この痛みを何とかしてくれと、その悲鳴は何軒かさきまで聞こえ、献身的に看病する妹の律にも当たったという。
へちまの三句を残して亡くなるが、八重は「もう一度痛いと言うとおみ」と泣き、律子は子規の背中のガーゼを撫でて泣いたという。律は10年間看病し、感染したと思われるが71歳まで生きた。

宮沢賢治記念館に行ったことがある。私の心に残ったのは、『銀河鉄道』でもなく、『注文の多い料理店』でもない。<永訣の朝>という詩である。
宮沢賢治は結核の妹トシを看病する。死ぬ前にトシは冷たいみぞれをとって来てくれと言う。
    あめゆじゆとてちてけんじや 
賢治はみぞれの中飛び出して椀に雪をとる。熱のある妹の口にそっと含ませたであろう。
賢治も結核を発症し、11年後に亡くなる。

常にマスクをし、大切な人の死に目にも会えない時代が来ようとは、子規も賢治も驚いているだろう。早く診断し、早く隔離する。感染症コントロールの基本である。医学の進歩の結果である。
今の時代であれば、律の献身も賢治の詩も生まれていない。


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