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「幸せな老後」はうさんくさい

父母が介護施設に入ることを決定づけた出来事があった。母はベッドに寝ていたが、夜間トイレまで歩いていくことが困難となり、寝室にポータブルトイレを置いていた。朝その処理をするのが父の役割になっていた。
ある夜、母はベッドと壁の隙間にはまり込んでしまった。私の夢を見て、ねぼけて、子供の私に布団をかけようとしたという。私は、こたつでも、廊下でも、畑でも、どこでもすぐ寝てしまう子供であった。
母ははまり込んだまま起き上がれなくなり、父に助けを求めたが、父は眠っており耳も遠い。やっと気づいた父が引き出そうとしたが、父も90歳になろうとしており、足も悪く、どんなに頑張ってもできず、そのまま二人で朝を迎えたという。
母は夜間何回もトイレに立つので、きっと失禁したろう。父も自分を責めたろう。どんなにみじめであったろうと、想像しただけで苦しくなる。その時、私は遠くで安眠していたのだから。
父母が特別みじめなのではない。どこにでもあるありふれた光景であり、むしろ父母は子供がいて、金銭的不安がない恵まれた位置に属するであろう。でも、この光景は時々私を苦しめる。
この過程を親も子供も、万人が平等に受けなければいけないから普遍的で尊いのか。どんな形でも後悔が残る。この後悔をうじうじと考えるのが子供である。
「幸せな老後」という言葉はうさんくさい。幸せな時も不幸な時もある、それを受け入れて、あちら側にいくのが老後であろう。
父は母を助けられない自分を思い、母は子供に迷惑をかけられないと思い、お迎えがくるまでの少しの間と思って介護施設に入った。父の死後、日記が残された。「迷惑をかけないよう頑張らねば」という文章が何回も登場した。90歳を越えて、迷惑をかけないようと思わせた子供は切ない。


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